神仏は妄想である547

世阿弥の、初心という言葉は、風姿花伝に、繰り返し出てくる。

その議論が、更にまとまるのが、晩年に書かれた、「花鏡」である。


それによると、「初心忘るべからず」という一句は、観世の流派に早くから伝えられたが、それに次の、三か条の口伝がある。


是非の初心忘るるべからず

時々の初心忘るべからず

老後の初心忘るべからず

以上である。


是非の・・・とは、初段階の下手の未熟を悟り、後の上手の段階へと、次第に向上すべきだという意味である。


第二の、時々の・・・とは、未熟の段階から、老後に至るまで、それぞれに似合いの芸風があり、その時分、その時分の初心を自覚すること。


そして、最後の老後の・・・とは、老後になり、慢心し、油断することのないように、戒めるという意味である。


この口伝三か条は、人間の心の未熟ということにたいする絶えざる凝視の必要を教えたものである。それを忘れる時、能の芸の風体もたちまち消滅してしまう。

そういう意味において、初心とはいつも自分の内側にあるものであって、外側にあるものではない。初心と付き合うということは、自分の内部に眼を向けることである。散乱し動揺する未熟な心を不断に陶治することでなければならない。

私はこの世阿弥の段階において、日本仏教の「心」の追及・探索の試みが一つのクライマックスに達していると思う。あえていえば、日本仏教の思想的変容が一つの成熟した段階を迎えているのではないかと考えたいのである。

山折 改行は私


何故、山折氏は、仏教の教えを、能の世阿弥から、持ってくるのか・・・

呆れるし、不思議だ。


つまり、仏教では、日本仏教の姿を伝えられないと、私は考える。


世阿弥の考え方は、日本の考え方である。

元から、存在していたものである。


日本では、心身一如とか、心・技・体、という言葉がある。

これらの言葉も、心というものに対する、伝統文化の根強い志向性を現す。


芸道、武道において、「無心」の境地から生まれる、意識の純粋化というものである。


日本人は、いつも、境地というものを、求めて来た民族である。


それが、仏教に刺激されて、言葉として、精神を作った。

最初は、言葉にしなかったと、言う。


私を「無」にするということは、私を「自然」に近づけることでもある。この場合「無私」というのは心がないことでもないし、心を空にすることでもない。心が未熟な初心であることを自覚しつづけること、いつでも自然や他者と共感、共鳴しつづけることのできる「無心」の状態であるということである。そのとき、その「無心」の状態は限りなく「仏」の状態に近づき「弥陀」の状態に近づいているということができないだろうか。

山折


あくまでも、仏教の復興を願う人、山折氏であるが、私は言う。


そこまで、了承したならば、何故、その境地を、「仏」とか「弥陀」とかの言葉に集約させるのか、である。


仏も、弥陀も、必要ないのである。

それでは、現代の道元になる。


私は、その境地を、もののあはれ、という、大和言葉で言う。

仏も、弥陀も必要ないのである。


つまり、神仏は必要ない。


仏教が、国民宗教というのは、哀れである。

勿論、舒明天皇から、仏像が入り、そして、天智、天武天皇から、国家的宗教として、仏教を掲げた経緯があるが・・・


仏教は、日本の自然崇敬の一部として、受け入れられて良かったのである。

つまり、言葉の世界、精神の世界を、認識する道具であって、良かったのである。


ところが、その仏教関係者、愛好家によって、歪なものになった。


それは、仏、という、化け物を置くからである。


ちなみに、山折氏の論説を引用したので、彼の、希望を紹介すると、日本の仏教は、各宗派の垣根を取り払うということだ、そうだ。


それは、日本の仏教が一般化し、普遍化したのは、平安、鎌倉の祖師たちの教義や思想によってではなく、15,16世紀以後に整備された、死者儀礼によってだったから、である。


明治以降の近代化の過程でも、それはいささかも、衰えることが無かった。それどころか、今日、それは、益々と、教化されつつあると、言う。


よって、仏陀を根本のシンボルとして、連合し、統合する方法を模索すべきだとのこと。


これは死者すなわちホトケという独自の宗教観を根底にもつ日本人にとって、歴史的仏教を読み替え組み換えていくための、一つの重要に挑戦的課題となると思うのである。

山折


確かに、ある寺では、住職が多忙を極めるところもある。

だが、それは、一部であり、全体ではない。

仏教は、僧侶たちとは、別の場で、説かれる時代である。


誰も、僧侶の元には、行かないのである。


つまり、信頼、信用されていない。

それを、取り戻すことは、出来ないのである。


宗教というものも、生成発展してゆくものであるが・・・

これから時代は、宗教の時代ではない。


新しい思想、哲学の時代である。

つまり、時代性と、時代精神に則った、思想、哲学の時代なのである。


それは、私の言葉で言えば、神仏は妄想である、となる。


山折氏は、最後の迷いを持った、学者と言う。