生きるに意味などない136

日本では、創唱的宗教は、皆無である。

必要なかったのである。


日本人とユダヤ人、という本を書いた、イザヤ・ベンダサンは、日本教というものが、存在すると、書いたが・・・

つまり、日本教仏教派、日本教キリスト教派とか。


日本人が無宗教だなどというのはうそで、日本人とは、日本教という宗教の信徒で、それは人間を基準とする宗教であるが故に、人間学はあるが、神学はない一つの宗教なのである。

イザヤ・ベンダサン


矢張り、宗教という言葉を使い、分析する。

識者の大半が、これである。

兎に角、宗教、信仰と、定義するのである。


それ以外の、言葉がない。


何故、伝統という言葉が、出ないのか、不思議だ。

日本は、伝統の国である。

そして、宗教という概念を使用する必要はない。


だが、しょうがない、私も使うことにする。


人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒隣りにちらちらする唯の人である云々・・・

夏目漱石


漱石、この西欧の古典、中国の古典、仏典までを自由自在に読みこなし、自分の作品の中に縦横に駆使しえた同時代の世界最高の知識人が到達したのは、「人の世を作ったのは人だ」という、日本教の古来から一貫した根元的な考え方である。

イザヤ・ベンダサン


神といひ 仏といふも 世の中の 人のこころの ほかのものかは

源実朝


人の心が、神も、仏も作るという、当然のことを、歌う。

これが、日本人である。

つまり、妄想ではない。

現実である。


これは神や仏を軽視する意図ではなく、またこのこころを絶対視することでもない。どこにも、何にも、絶対性を認めずまた求めないということである。求めても空しいという諦観に立脚している。

磯部 忠正


と、いうことで・・・

西欧の思想哲学、宗教とは、全く別物である。

更に、中国思想も、である。


ただし、老荘思想は、近いと思われるが、それでも、違う。


その後、老荘思想は、道教という、お化けを作った。


つまり、西欧の思想哲学、宗教、また、儒教等々は、生きるための、意味付けの行為である。


意味付けをしなければ、生きられない人間の性の、悲しさである。

そして、その思想、哲学、宗教に、はまり込むのである。


私は、それを片寄り、という。

片寄りは、つまり、強情さを生む。


だから、その思想、哲学、宗教に、命を賭けて、殉教したりする。

わざわざと、死ぬ必要はないが、その思想哲学、宗教に嵌り、命を縮めるのである。


いずれ死ぬ人間が、わざわざである。

更に、その死を、賞賛するという、狂いである。


まあ、長く生きて、聖人にならなかった際の、気の毒さを思えば、殉教した方が、身のために良かったのかもしれないが。


殺される必要も、急いで、死ぬ必要もない。

何せ、人間は確実に、死ぬ。


日本には、天寿を全うするという、考え方がある。

それは、自然を見て、学んだ。


枯れ木も、山の賑わい、という言葉が残る。

つまり、枯れても、老人になっても、何かしらの、生きる必要性があるというものだ。


男は、翁になり、女は、媼、おうな、になる。


或いは、神に近づく存在になる。


日本の伝統は、子供と老い人が、神に近いと、祭りの際に、神の座に座らせられた。


更に、誰もが祭司になった経緯がある。

今で言えば、神主である。


歳回りで、神主になる地方もあった。

特別な存在ではない。


古代から行われた、御霊祭りが、仏教伝来し、その後の仏教の堕落で、お盆という風習を作ったが、御霊は、先祖の霊である。

そして、それは、神であった。


亡き人は、神に成る。そして、自然のあらゆるものが、神であった。


今でこそ、神と書くが、カミとは、監、督、守とも、様々に書かれていた。


本来、大和言葉では、カム、カマ、カミという、系列語が存在した。


日本には、ゴッドとか、天真、天神の存在は無い。

どうしても、というなら、それは、太陽である。

太陽崇敬が、自然崇敬の象徴としてあった。


天地万物の、すべてが神といえる、伝統である。


欧米、中東、インド、その他の神観念は、全く別物である。


そして、神、カミという言葉も、便宜上の言葉である。

更に、悪魔、デビルという存在もない。


荒ぶる神も、拝むべき神であった。

対立する概念は無かったのである。