生きるに意味などない137

やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれける。世中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、みづにすむかはづのこえをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ、をとこ女のなかをもやはらげ、たけきもののふのこころをも、なぐさむるは歌なり。

古今集 仮名序 紀貫之


これは、日本の歌論の原型となる、本質的な提言である。


ドナルド・キーン氏は、

まず第一にわれわれが注意しなければならないのは、貫之が、詩人は超自然的存在に影響を及ぼす力を持つと主張していることであって、西洋におけるように、超自然的な存在が詩人を通して語り、詩人はたんにその言葉を伝えるために霊感をあたえられた媒体にすぎない、とはいっていないことである。日本人は、彼らの国にあるほかの万物と同じく、詩もまた神々とともに始まったと考えて来たかもしれないが、しかし日本の詩人たちは、けっしてみずからの詩を作るのに、ミューズにも他のいかなる神々にも助けを求めては来なかった。芸術は、それに帰せられるいっさいのすばらしい力にもかかわらず、人間の独立無援の才能よりも高いところにあるとは考えられなかったのである。

と、書く。


つまり、神の無い美学である。


これは、西洋の普遍的な存在を確信するという、伝統に対立するのである。


貫之の言い分は、日本の歌は、表現する人間の心を、唯一の種として、その背後には、一切の普遍的な精神、生産力を予想することなく、生まれてくるということである。


西洋の伝統、つまり、一神教の伝統には、全く見られない、日本の精神である。更に、西洋からは、実に、驚倒すべき非常識となる。


だが、その非常識を、非常識とは、感じない精神構造が、現代まで、日本の精神を支えている。


それは、ある場合には日本文化の脆弱性につながり、ある場合には寛容性ともみなされ、またある場合には神秘性の印象を与える。

磯部


その判定者に、絶対性を求めない、心性である。


日本人には、西洋の言う、ロゴスも、神も必要ではない。

その、人の心を種とするということも、その人の心を絶対的不動の、判定者にはしないのである。


花になく、うびくす、みずにすむ、かわずの声に、あはれの、感動を覚えるという、その心である。


人の心を中心にすると言っても、それは西洋思想における、神に対する人間主体ということではない。

それは、花や水、月に感応する心、つまり、花になる心、月になる心が、中心なのである。


それは、日本人が縄文期から培ってきた、心の有様である。


縄文期の長い年月の、結実が、万葉集に表現されている。


ぼくら日本人の特質は、究極に於いてぼくらが彼ら「西欧人」の神と無縁だという所にある。・・・西欧人が「無限の空間の永遠の沈黙」と向かい合った時、彼らの胸には、反射的にーーーほとんど条件反射的にーーー神若しくは神の追憶の観念が去来する。しかしぼくらの胸にはそのような性質のものが何も浮かばない。これは決定的な相違である。

江藤淳


さて、その心の定義であるが・・・

心理学的概念としての、善悪好悪に無関係に、いわば一切の具体性から独立に設定された、精神的実体という存在し、それが外界の物に刺激を受けて、何らかの、反応を起こすということではない。


その、心とは、もののあはれ、を知る心である。


そして、歌とは、その心から出てくるものなのである。


こころという概念は、日本の精神史のなかできわめて重要なはたらきをもっているが、仏教や儒教、さらにキリスト教を含めて西洋倫理思想の影響を受けてからは、まことに多様な意味内容をもつに至った。

磯部


そして、西洋かぶれした人たちが、また、混乱して、日本の心の有様を、忘れたと言ってもいい。


古今集は、平安前期に編集されが、それ以前の、奈良、天平時代、そして、それ以前の、古墳、弥生、更に、それ以前の、縄文期という、長い年月を経て、確立されてゆく過程である。


万葉集から、和歌が抜け出て、古今集により、和歌が定着してゆく様。その時代の、和歌と心の関係を、日本人の生き方の原型として、評価する伝統である。


それ以後も、鎌倉、室町、戦国時代を経て、江戸時代と下るが、和歌の精神は、変わらなかった。

心の解釈、評価は色々に、変容したが、和歌そのものは、変わらず、日本人の心の、伝統として、受け継がれてきたのである。


そして、見事に、特徴的なことは、人の心というものが、神や仏に代わる絶対的なものとしては、機能しないのである。


あくまでも人のこころの動きをそのままに表現することを旨とする。うれしいにつけ悲しいにつけ、「あはれ」という感動がいかにすなおに表されるかに歌のよしあしがかかる。そしてその感動が逆に神をも天地をも動かすというのである。絶対的な不動の基準などというものはどこにもない。あると思い込むこと、なければ理屈に合わぬと信じることのほうがよほど無理である。これが日本人の本音ではあるまいか。

磯部忠正


だから、西洋の合理主義は、日本人の肌に合わないのである。

全く、その心は、別物である。


ただし、精神の働きとして、西洋の合理主義が、日本人にも、受け入れられていると言う。


ここで、私は、精神と、心とを、別物として、扱う。

精神は、脳の働きである。

心は、体、全身の感覚を言う。


そして、魂は、その精神と心とを、結びつけるものとして、認識する。

日本の心を、大和言葉では、大和心、おほひなる やらはらぎのこころ、と読む。


日本語は、大和言葉から解釈しなければ、本当に解らないのである。

だから、大和魂は、おおひなる、やはらぎの、たま、である。