生きるに意味などない138

日本人は、自然から生まれ、自然に生き、自然に還るという、民族である。


それは、すなわち、日本人にとって、本来の自然とは、対象として認識したり、分析したり、元素に還元して、人工で再構成するとか、人間と対立するもの、人間を取り囲むもの、脅かすものではないのである。


ところが、近世以後、フランシス・ベーコン、デカルトなどの人間によって征服されるべきもの、利用されるものと規定された、自然なとが、日本人の間にも、有益な知識として、広がった。


実に、愚かな行動である。

西洋のものは、みんな良いもの。その考え方も、取り入れるべし、との馬鹿者たちによって、精神が、やられたのである。


ただし、すべてを否定しない。

西洋の自然科学、技術を取り入れて、十分にそれを学習した日本人は、先進西洋諸国と同じく、自然を思うままに利用し、征服した。


その結果が、自然破壊である。

公害と、奇病発生などという現象を契機として、日本人のこころの、奥底にあった、自然観が蘇りつつある。


人間の欲望のために、自然全体のバランスを考慮しなかったという、反省がなされた。

勿論、破戒された自然が、元に戻るには、100,200年の年月がかかるが・・・


日本人は、合理主義の反省に立ち、再度、日本の精神を取り戻すことである。


自然のなかに、自然として生きる日本人の根源的な情動が「あはれ」であるとしたら、この「あはれ」にことばの律動を与えたものが和歌であると言えるであろう。だから、日本人の場合、歌を詠むということが、必ずしもいわゆる特定の芸術活動ということに限られず、生活上のたしなみとか、一種の宗教活動とさえいえる面をもっている。

磯部


精神活動を、宗教活動として、表現するということが、理解出来た。

私は、宗教、信仰という言葉を使用しなくても、十分に日本の精神を説明できると、思っていたが、多くの、識者、評論家が、宗教と、信仰という言葉を使う意味が分かった。



だが、実際は、日本語の原型である、大和言葉を使用すれば、宗教とか、信仰という言葉を使わず、説明出来るのである。


矢張り、西洋思想、哲学を意識して、宗教、信仰と言う言葉を使うのである。


でなければ、彼ら、キリスト教白人には、理解出来ないからである。


つまり、日本の書き手は、日本人だけではなく、欧米人に向けても、発信したと言える。

それは、それで、良いことだった。


そに付け加えれば、本来、日本の精神を理解してもらうには、一番早いのは、日本語を学習してもらうことである。


日本語は、日本の精神の凝縮である。

そこから、更に、大和言葉への理解を促せば、より日本の精神を理解してもらえるのである。


漢字かな交じり、そしてカタカナと、日本語の世界は実に、広い。

世界で、唯一の言語発展を遂げたと言える。


さて、続けると、信仰の心境さえも、和歌で詠むという日本人である。


鎌倉仏教の祖師たちをはじめ、僧侶の中では、和歌を芸術活動として、嫌ったが、結果的には、その人たちも、和歌を詠むという事態になっている。


つまり、どれほど、激しい宗教行為をしても、日本人の場合は、和歌にすることで、何かを取り戻すのであるる


その、何か、とは、日本のこころ、である。

その、日本のこころ、を、日本教と言っても、いいのだろう。


そうでなければ、日本人でいる必要がない。

と、私は断定する。


さて、話を続ける。


山や河、草や花、鳥や獣、それらはみな人間の仲間である。本質的に異なるところがあるとすれば、人間は己の生きていることの自覚をもつこと、すなわち「あはれ」を覚えるという点である。

磯部


人のみにもあらず、禽獣に至るまで、有情のものはみな其声に歌ある也

本居宣長


と、そのように考えるのである。

欧米人は、全く、そんな考えは無い。

何せ、生きとし生きるものの、すべてが、創造主である神から、人間に与えられたものであり、人間が、それを支配するという、実に傲慢不遜な考え方である。

勿論、彼らは、それが傲慢不遜であるとは、全く考えない。


如何に、日本人の感覚と違うかという、ことである。


「あはれ」という有情のものの根本的なこころのうごきの次元で、日本人は天地万物と共存共生しているということは承認しておきたいのである。

磯部


草木、獣には、有情は無いのか・・・

実は、あるのである。


有情があるから、芭蕉は、松のことは松に、竹のことは、竹に学べと言う。

松になり、竹になることが、出来るのである、日本人は。


日本人は、究極的には、和歌でのみ表現しうるような生き方をすると、判断する。

それでは、現在の人たちは、和歌を詠むかといえば、その教育がないゆえに、和歌、短歌を詠むことが、出来ない。


平安期の教育では、歌詠みが教えらていた。

当然である。


何せ、一般人でも、歌詠みが出来るようになった、日本である。

その証拠は、万葉集である。


天皇から、遊女、乞食に至るまで、歌詠みをした。

そして、歌詠みの世界は、驚くべきことに、平等なのである。


これは、世界で唯一のことである。

身分の差は、歌の世界には、存在しないのである。