文献として残る、万葉集の時代には、遺骨に対する尊崇の念、遺骨を祀るということは、皆無だった。
古代は、遺骨は、そのまま捨てた。
そして、その後の、霊、魂を大切にしていたのである。
日本人が、遺骨に対する特殊な観念を抱きようになるのは、11世紀から、12世紀の頃で、源信が比叡山で、浄土教の教えを説き始めた頃からである。
それから、10世紀を過ぎて・・・
現在は、どうなのかは、見て御覧の通りである。
果たして、このまま、遺骨崇敬を続けるのかは、解らない。
元に戻り、遺骨には、拘らず、霊、魂に向けた行為になるかもしれない。
つまり、宗教の必要のない時代である。
山折氏は、そこから、日本人の遺骨信仰が根強いというが・・・
そして、死の看取りという考え方も、そのような伝統に立つことだという。
そしてその死生観の根底を掘り下げていくと、インドに発生した浄土思想を日本的に読み換えた、「山中浄土観」の問題が出てくるかもしれません。自然に対する敬虔な感情、すなわち山にたいする日本人の独特な感覚を等閑に付することはではないわけです。やはりそれぞれの文化には、それぞれ固有の死の看取りのやり方があってもいいのであって、その場合それぞれの文化に内在する死生観の問題が根本的に重要ではないかと思います。
山折
私の考えは、インドの浄土観というより、中国仏教からの、浄土観である。
それに関しては、別エッセイ、神仏は妄想である、に詳しく書いている。
中国からの仏教には、その他大勢の宗教の、混合と複合がある。
つまり、単なる、インド仏教ではない。
それに関しては、主旨ではないので、省略する。
さて、それでは、日本が古代から持っていた、意識を見る。
万葉集の、山部赤人の長歌がある。
その中で、赤人は、富士というのは、神さびて、高く尊いという。
この、神さびる、という意味は、神であるかの如くにふるまう、という意味になる。
つまり、富士山は、神のように振舞うのである。
それが、ご神体として、そこに存在しているということになる。
山というのは、万葉時代は、死者の霊が昇ところと、されていた。
万葉集には、死者を歌う、挽歌という歌が、多く収められている。
その歌には、死んだ人の魂が、高いところに昇って行く。山に昇り、森に昇り、木の梢に向かい、昇のである。
更に、霧に昇り、雲に昇る。
死んだ人の魂が、高いところを目指して、昇るのである。
そこで、死者は、山に埋葬するという、考え方が出来る。
山に埋葬するという意識が、一般に広がる。
例えば、熊野という場所は、古い時代から、死者の籠る山として、知られる。
日本書紀には、イザナギノミコトが葬られた場所が、熊野の有馬村である。
大和平野を見ると、春日大社の背後の、三笠山や、春日原生林が、埋葬場所だった。
三笠山には、天智天皇の皇子で、歌人として有名な、志貴皇子が埋葬されている。
その対面の、二上山には、天武天皇の皇子、大津皇子が、埋葬されている。
死者の霊の昇る山は、同時に、死者を葬る埋葬地であった。
そして、同時に、山そのものを、ご神体とする、ご神体山信仰というものが、形成された。
神宿る山という、聖地、霊地であるゆえに、そこに死者を祀る。
それが、山岳信仰の大本である。
日本人の、古代信仰としての、山岳信仰が発展し、後に、仏教の影響を受けて、修験道という人たちの、信仰がはじまる。
簡単に言えば、そういうことになる。
そして、加えて、山岳信仰というか、それを伝統とするかは、別問題として、私は、伝統と呼ぶ。
山中に噴き出る、泉の問題も、重要である。
それが、人の心身を癒すという、考え方から、色々な霊山を中心に、伝えられた。
それが、温泉である。
熊野本宮近くには、湯ノ岬温泉がある。
東北、湯殿山の山頂には、ご神体として崇められいている、大きな岩がある。その岩から、熱湯が吹き上げている。
日本の霊山には、たいてい、泉の信仰があったという。
ここから重要である。
日本人は、死ぬと、その霊が、周辺の山に昇り行くと、自然に信じて来た。
そして、その死者の霊を崇敬することにより、先祖が祖霊になり、更に、一定期間を経ると、祖霊、つまり、カムに成るのである。
日本人の、神意識は、祖霊であると、明確に言う。
唯一絶対の超越した神観念は、全くない。
死霊から、祖霊へ、そして、祖霊から、カムへと変容して、そのカムが、一年のうちの、一定期間を限り、里に下りる。
その季節を、祖霊崇敬の、行事として、夏の時期、そして、正月の時期の行事となった。
更に、そのカムが、里に定着してくださると、信じて、鎮守の神となる。
鎮守の神を、総括するのは、産土の神である。
まとめると、生きる人間と、死んだ人間の世界が、山を媒介して、循環しているという、考え方である。
そして、それを、伝統という。
日本には、宗教というものが、必要ないのである。
西洋の宗教による解釈は、日本には、通用しないのである。
それを、明確にしておく。