ベナレスの葬儀の風景を描く。
男性の遺体は、白い布でくるまれて、粗末な担架に乗せて、四人で担ぐ。
そのまま、川岸に持ってゆく。
それは、遠くから見ていても、解るのである。
女性の場合は、真っ赤な布でくるみ、同じように、担架に乗せて、運ぶ。
薪を一定の高さに積み、死体を乗せて、重油をかけて火をつける。
それが、三時間から、四時間程度かかる。
その間、二、三メートル離れたところに、家族たちが、じっと座り、見ている。
遺体が焼けただれ、白骨化してゆく。
そのすべての、プロセスを、じっと傍で見つめている。
私は、バリ島で、その光景を見た。
バリ島は、バリヒンドゥーと呼ばれる、矢張り、ヒンドゥー教から出たものである。
それは、何年も前の遺体を、掘り起し、新しい遺体と共に、焼くのである。
何故・・・
貧しいゆえに、複数の遺体を、まとめて焼くというのだ。
そして、ベナレスと同じように、薪の上に乗せて、焼く。
そして、最後に白骨化したものを、死体埋葬人がすくい、ガンジス河に流す。
そうすると、魂が昇天する。
焼いた後の遺灰を、川に流すと、魂が天に昇るという、考え方が、ヒンドゥーである。
だから、墓は造らない。
おそらく、ヒンドゥー教徒のみが、死体を穢れたものとは、見なさないのではないのか。
日本だけではなく、欧米諸国も、穢れたものは、外に排除するという、考えである。
ヒンドゥーは、火と水に対する、信仰が強いと言う。
死の最終を、「死者を看取る家」で過ごすことに、何の抵抗もない。
やがて、自分も、息を引き取り、ガンジス河に清められると、信じる。
その前に、火によって、清められ、次に、水によって、清められる。
日本の古代神道では、肉体は、死ねば、穢れとして認識し、そのまま捨てた。その後で、魂、霊に対する、作法があった。
山折氏の、説を掲げる。
そういう信仰を媒介にして、看取る者と看取られる者が、あそこで最後の日々を過ごしているのです。表面的にみると非常に暗い、悲惨な場面のように見えますけれども、その内面には、自然と人間とがガンジス河という川の力によってたえず循環しているのだ、という信仰というか世界観があります。ですからガンジス河にまいりますと、いろんな人がダンゴを作って、供えてお祈りしています。そのダンゴをピンダというんですが、それを先祖の魂に供えているんですね。昇天した先祖の魂を供養する。先祖の魂というか祖霊は、天上界と地上界を行ったり来たりしているわけです。死者の世界と生きている人間世界を、川が流れるように絶えず循環している。そういう信仰の世界を背景にして、「死を看取る家」が作られており、死者を焼却する儀礼が毎日のように行われているのです。
山折
簡単に言う。
非常に、ラクチンな、葬儀である。
そして、その死ぬ姿勢が、また、いい。
死を覚悟して、更に、その後の心配はない。
信仰というものが、唯一、正常に機能している、姿である。
何せ、そこには、暗く、悲惨に見えるが、それは、見る者の側の問題であり、本当は、見事な、死の姿勢なのである。
更に、墓などに、捉われない。
それが、本当の救いである。
また、日本仏教における、戒名など、何の意味もないものである。
死んでから、仏門に入る・・・という、呆れた行状である。
勿論、日本の文化の有様の、変転は、理解する。
しかし、そろそろ、本当に目覚めるべき、時期にある。
死ぬ時節には、死ぬことなのである。
長く生きることが、尊いというお話しは、もう、お話しの世界で、いい。
日本人が、忘れたものは、いのち、と、寿命の違いである。
寿命は、いのち、ではない。
先の、循環の思想が、いのち、である。
さっさと、死んで、循環の世界に、入ることが、本当なのである。
つまり、むやみやたらに、生かすな、である。
管にして、生かすという、根性が気に入らない。
生きるというのは、動であり、死ぬとは、静である。
静のままで、生かして、どうする、というのが、私の考えである。
更に、人間の本質は、死ぬことにある。
生きることに、意義があるのではない。
死ぬことに、意義がある。
循環とは、親になり、子供が生まれれば、もう、死んでもいいのであるという、思想である。
勿論、何も、産まなくてもいい。
黙っていても、人は、産む。
今時期、人口増加で、大変である。
日本は、少子高齢化というが、それで、いいのである。
別の場所では、食べ物がなくて、死ぬ子供たちがいる。
どうも、それがおかしいと、気付かない程、やられてしまった人間である。
あまりに、人口が多いと、戦争をするのが、人間の常である。
戦争とは、実は、人減らしなのである。
アフリカの紛争を見て・・・
矢張り、人間は、進化していないと、心底思う。