死ぬ義務19

さて、ここで、中世日本での、死に方を見たが、では、現在は、どのような形があるのかを、見る。


一つの情報である。

看取り士、という資格を出している、団体がある。

一般社団法人「日本看取り士会」である。


会長は、柴田久美子さんという。

この方は、2012年、その会を設立した。

その前は、離島にて、看取りの家を創設して、看取り士として、旅立つ人に寄り添うと共に、看取り文化を伝える講演活動などをしていた。


そして、その活動拠点を本州に移し、現在に至る。


現在の日本では、八割の人が病院で亡くなる。

厚生労働省は、高齢者の人口が全体の三分の一になる、2030年には、約47万人が、病院でも施設でも、最期を迎えられないという、看取り難民の可能性を示唆している。


そんな中での、看取り士会である。

実際、日本では、1950年頃では、約八割の人が、自宅で亡くなっていた。

つまり、現在は、それが逆転しているのである。


更に、現在の問題は、自分の死が、自分で決められないということである。


ある高級有料老人ホームでは、延命治療はいらない、病院で死にたくないと、本人が望んでも、病院に送られ、チューブまみれで、会話も出来ずに、亡くなるのである。


そこには、ホームで死ぬと、その部屋に新しい人が入りずらくなるという、理由である。


柴田さんは、最初に、病院のない離島にて、四年間、ホームヘルパーの仕事をして、自身もガンを経験し、その人生を振り返り、看取り、ということを、目指したという。


現在、全国の看取り士は、約400人。その六割が看護師で、二、三割が介護士である。

看取り士になるには、同法人の養成講座を受講する。


そこで、最も重要なことは、当事者意識に立つこと。自己肯定感が高いこと。看取りの場では、動じない心の強さが求められる。

何があろうと、にこやかに受け入れ、愛を渡せる人でないと駄目で、愛を欲しい人だと難しいという。


研修では、親子関係を振り返り、自己肯定感を高めるプログラムを設けている。

更に、死を怖れぬ死生観である。


この、最後の死を怖れぬ死生観とは、私が言うところの、死ぬ義務と同じ思想である。


そこで、面白いのが、依頼を受けると、有償の看取り士と、無償の「エンゼルチーム」という、地域のボランティア数名で、体制が組まれる。


エンゼルチームは、看取り士を支えて、終末期の人の傍に、ただ寄り添い手を握ること、見守ることが仕事である。

それ以外は、しないのである。


現在、全国に、約450チームが出来たという。


だが、そこには、宗教は無い。

そして、現在は、世界的に、その看取りの方法が、広がる。


宗教の違いを超えて、行われるという、理想である。


柴田さんの、提言は、

どう人生を生きて、どんな最期を迎えるのか。生きることと死ぬことは、同じと考える。

延命治療の有無、どこで死ぬのか。子ども、医者任せにしない。

60歳を過ぎたら、自分で決めておくことだ。


更に、

逝かれた方のエネルギーを受け取ることを、「いのちのバトン」と言う。

多くの宝を頂ける、看取り文化を広めるため、映画などの企画もしているという。


上記は、新しい、看取りの文化を作り挙げると、考える。


自分一人では、死ぬことが出来ない人には、お勧めの方法である。


だが、自分一人で死んだとしても、その後のことは、後に残った者がする。そのことも、頭に入れて、死後の所作を書き残すことである。


何度も書くが、人間には、死ぬ義務、があり、それを真っ当に、受け入れて、死ぬべきである。


死にたくないという、足掻きは、所詮は、無理な行為である。

黙っていても、死ぬからである。


人生の最期の、死と言うものを、私が自ら決められることが、人生最大の幸せである。


先にも書いた通り、現在の法律では、尊厳死、安楽死は、出来ないのである。


更に、自殺、自害、自死でも、それを助けると、法律的に、ほう助罪となる。


そして、その最期の死の場では、私の生きた、すべてが現れる。

最高の自己満足の極みを、死ぬのである。


実は、死とは、自己満足の最高の場なのである。


このエッセイでは、後々に、尊厳死と安楽死について、徹底的に書きつけるつもりである。


そして、それが法律になるべきと、確信する。

死ぬ義務、というものを、国家が介入してはならない。


死に方に関する、その様は、百人百様で、対処すること。

死ぬべき時に、死ぬことを、法律が守るべきである。


無駄な人生を、生きる必要は、どこにもない。


勿論、ただ、生きているだけでいい、という人も、この世には存在する。

例えば、天皇陛下、など。


その存在だけで、権威ある人である。


だが、矢張り、天皇陛下は、御一人、と言われるように、ただ、お一人の御方である。

後の人は、下の人、しものひと、である。