アメリカの心理学者であり、精神医学者である、キューブラ・ロスという女医が書いた本で、「死ぬ瞬間」というものがある。
一時期、有名になった本だ。
ポスピスの運動をして、大きな仕事をしていた人である。
アメリカのポスピスの、先駆者と言われる。
この人が考えたことは、死ぬ人を看取るのは、医者だけではなく、ソーシャルワーカー、看護師、家族、宗教家という人たちで、チームを作り、一人の死に行く人を看取るという、考え方である。
ところが、最初は、アメリカ医学界からも、宗教界からも反対された。
更には、看護師の団体からも、反発されたのである。
誰からも、支持されなかったという。
だが、「死ぬ瞬間」という本を出版して、これが多数の読者を得て、ついには、大衆の支持を受けて、ヨーロッパ諸国の言語に翻訳されて、出版されるほどになり、大反響を受けた。
勿論、日本語でも訳されて、多くの人が、影響を受けた。
さて、その内容であるが、死にゆく人は、最初、自分が死ぬと言うことに対して、心理的に抵抗するという。
その抵抗感が、怒り、悲しみという形を取り、激しい感情の爆発となって現れる。
しかし、時間が経つにつれて、次第に、死を受容するようになり、気持ちが静まってくる。
だがそれは、外面的な変化であり、静かになりつつも、実は、まだ抑圧されている。
本当に意味では、解放されていないのである。
そして、葛藤である。
それが、次第に、生きるエネルギーを低下させてゆく。
そして、最後の段階になると、生きている世界から、離脱しようという、素直な気持ちになる。
現実から、次第に離脱しようという気持ちにもってゆくのが、ポスピス・ケアの大事なところだと、ロス氏は言う。
最後の瞬間になり、家族、社会と、心理的な生きたいという欲望から、離脱して行くのである。
現実的な絆と、完全に断絶するとう状況を迎えて、最期の死を迎える。
これが、ロス氏の、結論である。
そこで、山折氏は、疑問に思ったようである。
ひょっとするアメリカ人はそれでいいかもしれないけれども、日本人はそれではだめではないか。そういう考え方を日本人はまず受け入れないだろう。死を迎えようとする日本人には、それはあまりにも残酷ないき方だ。
残酷という以前に、そもそも、ものの考え方の基盤がそんなふうになっていないはずだ、と私は思いました。キューブラ・ロスという人の、悪戦苦闘にはたいへんな敬意をもったんですが、その結論にたいしては、私はどうしても承服することができなかった。
山折 改行は私
確かに、日本人向けではない。
日本人の、情緒ではないと、私も思う。
要するに、死後のことである。
それでは、この世と、あの世の断絶であり、日本人の情緒では、物足りないのである。
更に、日本の伝統の中にはない。
ここで、日本の、死についての伝統を書きたいが、それを抑えて、ロス氏のその後の書籍を紹介する。
「死ぬ瞬間」の続編が出る。
「新・死ぬ瞬間」である。
彼女は、その後、死んでゆく、子供たちの臨床の場で、観察したことを、書く。
子供たちは、「デカセクシス」の状態で死んで逝くのではない、ということだ。
つまり、現実のすべてのものと、自分を切り離して死ぬということは、子供たちには、出来ないのである。
そして、ロス氏の、結論は、子供たちは、死んだ後、自分が何か別ものになって死ぬ。それが、別のものの、姿になるという。
姿を変えて、母、父、友人のところに行く。
そのように考えて、死んで逝くということだった。
そして、その死後に、何に変身するかというと、蝶に変わるという考える
例が非常に多いと言う。
一神教では、神の国、天国に行くと教えられる。
つまり、その天国は、現実、この世とは、別物であり、断絶されてある世界である。
山折氏は、ロス氏は、科学者なので、子供たちがイメージする、蝶が、魂と言わないと、言う。
だが、それは、限りなく、魂に近いイメージなのだとも、言う。
ギリシャ語では、魂を、プシュケーと言う。
そして、その言葉は、魂のほかに、蝶々という意味もある。
ギリシャ人は、人間が魂になり、他界、あの世逝くと、考えていたのである。
その魂に、蝶のイメージを持っていたということだ。
ロス氏も、そのことに、気づいたようである。
日本の場合は、古い時代から、白鳥、蝶になるという説話が多い。
キューブラ・ロスは自分の考え方を変えたんです。人間が死ぬときは、完全に現実から離脱したりあるいはそれと断絶して息を引き取るのではない。魂が蝶になって、他界と現実を結びつけるようなそういう旅をするのだと考えを変えた。姿を変えて、ただ別の世界に移行するのだといってもいい。そういう信仰とかいうものの考え方が、現代のアメリカ人、しかも子供の世界に生き続けている。
山折
私は、タイで、カレン族の村を訪れた際に、死後の話を聞いた。
葬式が終わると、自然の中に、つまり、森の中に死体を捨てて、それ以後は、一切の行事はしない。
ただ、夜、珍しい動物などか、家の近くに来ると、死者の霊だと言う。
その葬式は、一晩中、死者の回りで、村人が、お前死んだ、死んだ国に帰りなさいと、朝まで、唱えるという。
実に、原始的である。
そして、一切の、妄想、幻想を受け付けないのである。
ただし、死者の国という、観念があるのみ。