少しばかり、難しいことを、書く。
別エッセイ、生きるに意味などない、で更に、詳しく説明するが・・・
私という、意識は、妄想である。
実は、私というものの、実体は無い。
ただ、あると思っているだけである。
私は、これを基本として、物事を考える。
実に、恐ろしいことである。
私というものが、無いのである。
勿論、仏教の一派では、こういうことを、散々に議論して、一つの派閥になった経緯がある。
さて、私は、それとは別物である。
私とは、無、空と言う程度が、仏教の一派である。
私なども何処にもない。
それでは、私と言う意識は、どのようなものか・・・
私は、これを知ることによって、人の病も、不安も、何もかも、解消できるようになった。
つまり、私というものが、存在しないのであるから、私の、拠り所を得なければならない。
それが、私と対座するものである。
例えば、目の前の人である。
家族の、一人一人。
父や母は、私なのであると、感得すること。
父や母は、私なのであるという、悟りである。
ただし、悟るという、仏教用語は、誤解を招くので、事実ということにする。
私という意識などは、実に不安定で、怪しいものであるが、対坐するものが、私なのであると、気付くと、ようやく、生きられる。
私というものは、無いが、私の見ている人やモノ、その他、一切のものが、私なのであると、気づく、事実が生きられる意識となる。
自分が、私と思う意識は、妄想なのである。
何処にも、私などある訳が無い。
ただ、あると信じて、私がある。
だが、目の前のモノは、事実である。
それが、私なのであると、知る事。
信じる者は、騙されるから、皆々、私というものがあると、信じている人は、騙されている。
目の前にある、本や、様々なモノが、私であると、感得すると、ようやく、生きられるのが、人間である。
唯識論の、仏教の一派では、それを、延々と繰り返し語り尽くす。実に、馬鹿げたことを、やっている。
それでは、私の言うことが、一枚上手である。
自然を見ると、そこに、私がある。
すべてが、私なのである。
仏という、化け物ではない。
すべてに、仏性があると、言った、日本仏教の開祖たちの、戯言。
嘘である。
仏ではなく、それは、私なのである。
また、一神教のように、神がすべてを作ったという、妄想は、余りある。
すべてを作ったのは、私である。
私が存在するから、それらが、存在する。
私が存在しなければ、それらのモノも存在しないのである。
ちなみに、ここで言う私とは、方便である。
方便と言う言葉も、仏教用語であるから、言い換えと言っておく。
そうすると、存在していモノ、すべてが、輝いて見える。
それが、私なのだから。
そして、愛しく思う。
更に、それらを、大切にする。
今、目の前にいる人を、大切にしないで、誰を大切にするのか・・・
地球の裏側にいる人を、大切に扱うことなど出来ない。
だから、目の前にいる人を、大切にする。
それが、事実である。
そして、それによって、生かされて生きるのである。
生きていることが、奇跡という事実を知る。
だから、それ以上の奇跡を望まない。
ガンが治った・・・
馬鹿馬鹿しい。
ガンが治っても、確実に死ぬ。
死ぬはずが、精々少しばかり、長生きする程度で、奇跡とは、笑わせる。
人生は、死ぬことが、前提にあって、成り立つのである。
死ぬことは、事実である。
だから、死ぬことも、私なのである。
生きる事は、死ぬことにより、成り立つ。
死ぬことは、生きることにより、成り立つのである。
仏教は、生死一如なとどいうことを、言うが、何んの事はない。
それも、仏の命と言う程度である。
仏ではなく、それは、私なのである。
神仏は妄想であるから、そろそろ、そんな言い方は、止めた方がい。
そして、私も妄想であるから、そろそろ、私と対坐する、すべてのモノを、大切に扱うことである。
それしか、生きるべき術がない。