日々の言い分344

少しばかり、難しいことを、書く。

別エッセイ、生きるに意味などない、で更に、詳しく説明するが・・・


私という、意識は、妄想である。

実は、私というものの、実体は無い。

ただ、あると思っているだけである。


私は、これを基本として、物事を考える。


実に、恐ろしいことである。

私というものが、無いのである。


勿論、仏教の一派では、こういうことを、散々に議論して、一つの派閥になった経緯がある。


さて、私は、それとは別物である。

私とは、無、空と言う程度が、仏教の一派である。


私なども何処にもない。

それでは、私と言う意識は、どのようなものか・・・


私は、これを知ることによって、人の病も、不安も、何もかも、解消できるようになった。


つまり、私というものが、存在しないのであるから、私の、拠り所を得なければならない。


それが、私と対座するものである。

例えば、目の前の人である。


家族の、一人一人。

父や母は、私なのであると、感得すること。


父や母は、私なのであるという、悟りである。

ただし、悟るという、仏教用語は、誤解を招くので、事実ということにする。


私という意識などは、実に不安定で、怪しいものであるが、対坐するものが、私なのであると、気付くと、ようやく、生きられる。


私というものは、無いが、私の見ている人やモノ、その他、一切のものが、私なのであると、気づく、事実が生きられる意識となる。


自分が、私と思う意識は、妄想なのである。

何処にも、私などある訳が無い。


ただ、あると信じて、私がある。

だが、目の前のモノは、事実である。

それが、私なのであると、知る事。


信じる者は、騙されるから、皆々、私というものがあると、信じている人は、騙されている。


目の前にある、本や、様々なモノが、私であると、感得すると、ようやく、生きられるのが、人間である。


唯識論の、仏教の一派では、それを、延々と繰り返し語り尽くす。実に、馬鹿げたことを、やっている。


それでは、私の言うことが、一枚上手である。


自然を見ると、そこに、私がある。

すべてが、私なのである。


仏という、化け物ではない。

すべてに、仏性があると、言った、日本仏教の開祖たちの、戯言。

嘘である。


仏ではなく、それは、私なのである。


また、一神教のように、神がすべてを作ったという、妄想は、余りある。

すべてを作ったのは、私である。


私が存在するから、それらが、存在する。

私が存在しなければ、それらのモノも存在しないのである。


ちなみに、ここで言う私とは、方便である。

方便と言う言葉も、仏教用語であるから、言い換えと言っておく。


そうすると、存在していモノ、すべてが、輝いて見える。

それが、私なのだから。


そして、愛しく思う。


更に、それらを、大切にする。

今、目の前にいる人を、大切にしないで、誰を大切にするのか・・・


地球の裏側にいる人を、大切に扱うことなど出来ない。

だから、目の前にいる人を、大切にする。


それが、事実である。


そして、それによって、生かされて生きるのである。

生きていることが、奇跡という事実を知る。


だから、それ以上の奇跡を望まない。

ガンが治った・・・

馬鹿馬鹿しい。


ガンが治っても、確実に死ぬ。

死ぬはずが、精々少しばかり、長生きする程度で、奇跡とは、笑わせる。


人生は、死ぬことが、前提にあって、成り立つのである。


死ぬことは、事実である。

だから、死ぬことも、私なのである。


生きる事は、死ぬことにより、成り立つ。

死ぬことは、生きることにより、成り立つのである。


仏教は、生死一如なとどいうことを、言うが、何んの事はない。

それも、仏の命と言う程度である。


仏ではなく、それは、私なのである。


神仏は妄想であるから、そろそろ、そんな言い方は、止めた方がい。


そして、私も妄想であるから、そろそろ、私と対坐する、すべてのモノを、大切に扱うことである。


それしか、生きるべき術がない。