日々の言い分349

木村天山の歌

クラシック系音楽評論に詳しいO氏より、私の歌、演歌師、歌師としての、歌唱の評論を頂いた。
以下、それを載せる。

 演歌のみならず、昭和歌謡曲、童謡、そして日本歌曲も歌う演歌師。
雨降りお月さん、トンボのめがね等々の童謡を、日本歌曲の域にまで高める。
アカペラ曲も、ためらいもなく歌う。

 氏の唄には、多くの演歌歌手にはない独特の路線がある。

 まず、消極的な意味での定型的が無いこと。
恣意的に抑制を排し嗜好の一般性を狙うべく定型性を伴った大量消費型のコマーシャリズムに則る演歌歌唱法においては、氏の唄の味わいは到底見出せない。
詩を浮き彫りにするようなフレージングは、面白く、しかし歌詞の息使いと整合し極めて自然である。

具体的には、歌詞の意味・それが与えようとする効果を、独特の「間」と「音圧の変化」そして「ルバート」によって捉え表現しようとする。
確かに音楽で伝えるべくものを譜面の正確な体現により為そうとする方法もあるが、木村天山氏の唄は、それより優先させるものべきが他にも有るのだと感じさせる。
主観性を打ち出した歌唱法ではあるが、メロディーと歌詞を把握しやすいため、結果、配慮の利いたもとなる。

 そして、マイクを使わず、全身を使い声を共鳴させ、時には力技も辞さない果敢な試みが見られ、迫力がある。
また、歌唱に舞踊を取り入れ、身体の動きと強く同調する瞬間が、新しい。
日本舞踊を演歌・朗詠・童謡と日本歌曲へ適合させる新しい解釈。
これは他の演歌歌手とは決定的に異なる。

 よって、他の演歌歌手の形態は、より大衆演歌らしい途を志向するため「均質性」と「形式の統一性」を重んじる結果となるといえる。
しかし、上記のことから木村氏の唄は、寧ろ逆説的には思い切ってジャンルの概念を捨象することで、より高い自由度と効果的な歌唱を呈したといえる。

デメリット:
1. 感情が高じると、ビブラートの幅が広くなりすぎて音程がずれる。安定しない。 
2. 特に低音の不安定さが気になる。
3. 音程が非常に正確 とは言えない。
逆に言えば、一般のプロの演歌歌手は、上の3点だけのミスはしない・・・というだけのことです。

評価される部分より、デメリットといわれる部分に、納得する。
感情が高じると、ビブラートの幅が広がりすぎ、音程がずれる、安定しない。と、ある。
その通りで、実は、私は、それを、善しとしているのである。
音程がずれる、安定しないから、いい。
それに関しては、ピアノの辻あやか、からも、感情のために、音程がずれていると、言われる。が、違う。
それでこそ、私の歌なのである。
逆に言うと、そういう、芸当は、誰にも出来ない。物真似で、出来る人は、いるかもしれない。

特に、低音の不安定さが、気になる。
実は、藤岡宣男の凄さは、裏声の高さの美しさも、さることながら、その低音の安定が、見事だった。
低音が、不安定だということは、歌全体が、不安定になる。
要するに、土台の無い建物のようだ。
それでは、芸として、半人前である。

素直に、私は、それを認める。
実に、私は、探りながら、低音を歌うのである。
そして、この探るという行為が、私の芸術活動である。

それが、次の音程が非常に正確、とは言えない。ということになる。
O氏は、ピアノ教育を受けた、クラシックのエリートである。
クラシック音楽は、音程が命である。

私は、音程を否定するものではない。音程あっての、西洋音楽である。
それでは、言うが、ピアノのドという音の幅を、何と聴くかである。
絶対音感という、精神疾患がある。
すべての音に、ドレミの音が、当たるのである。それ以上のヘルツ単位にも、陥る。

西洋音楽の限界は、それである。
人間を機械と一緒にして、善しとする。
声楽家の声は、機械であって、善しとする。

実は、ここが、議論のしどころである。

音程とは、何か。

耳の悪い者は、音楽は、出来ない。要するに、よく聴くことが、出来ないからである。
出す音は、聴く音である。

音程が正確ではないという、その根拠は、西洋音楽の音程のことである。
その音程に、当てはまらない音程を、不正確という。
何故、それが言えるか。
それが、多数だからである。

西洋音楽の音程では、大和言葉の、その音のブレ、ズレを許せないのである。
O氏の指摘により、私は、益々と、意を強くした。

私の万葉集朗詠を、ピアノの辻あやかは、音程が不安定な、でも、何となく、安心するものという。
この、何となく、心が安定するという、ここに、西洋音楽でいう、音程では計ることができない、音、そのものがある。

機械のように、音程が、正確であることを、私は、素晴らしい芸術行為だと言う。
そして、私の歌のように、西洋音楽でいう、音程が正確ではないという行為にも、芸術活動を観るのである。

藤岡宣男は、私に、歌うなら、発声指導を受けてからと、言った。しかし、音程を、正すとは、言わなかった。
つまり、藤岡は、音、そのものの、許容を知っていた。
オーフといわれる、許容範囲である。

音は、心である。
厳密に、それを、規定できないし、出来たら、それは、ゾンビ、妖怪、化け物である。

日本の伝統、言霊を支える音霊は、生きている。
生きているということは、動いている。
死ぬということは、静止である。

音は、動いている。

藤岡は、私の歌を、音程の幅が広すぎて、何の音か、解らないよーーー
と、嘆いていた。

私のビブラートは、楽譜に出来るとも、言った。
ああ、懐かしい。
そうして、言い合いをしていた頃、私は、幸せだった。だから、舞台で歌うこともなかった。藤岡との言い合いで、芸術活動をしていたのである。

私は、藤岡の次にO氏を尊敬している。

さらに、O氏からの、批判を受けて、舞台に立つつもりである。

長唄の稽古をしていた時、三味線の音とは別の音で歌がある。また、三味線の音より、ズレて、歌が始まる。また、二上がり、三下がりが、行われる。
そんな芸当を、西洋音楽は、出来ない。
勿論、今では、邦楽の方が、西洋音楽に近づけて、理解を求めている。

どちらが、許容範囲が、その心が広いのかは、一目瞭然であろう。
常磐津、清元、義太夫、地唄、大和楽、新内等々、西洋音楽の五倍の、力量がいる。



上記の書き込みは、昔のものだ。

記録のために、ここに再度、掲載する。