性について303

ニューギニア社会について、書く。


同性愛の年齢グレード制に関する、最も包括的な最新の研究事例は、南太平洋地域、特にニューギニアの島々から報告されている。概に百年以上前から人類学者による調査報告は行われてきたものの、本格的な研究の開始は1970年代半ば以降のことだった。世界の大部分の地域では、政治的、宗教的弾圧や植民地支配、そして時勢の変化に伴い、年齢構造化されたホモエロテック関係が見られなくなってから久しいが、ニューギニア及びメラネシア諸島では二十世紀後半まで存続していた。・・・

ギルバート


と、いうことで、簡単に説明する。


男性と少年の慣習化した、ホモエロテック関係の全体像、その意義が明らかになって来たという。


そのホモエロテック関係は、戦士集団の一部であると共に、ジェンダー区分を基本とする各集落の、メンズ・クラブハウスの生活の一部であり、また、男性のための、男性による、秘密結社へのイニシェーションの一部分を成している。


その文化的な慣習は、19世紀から知られ、当初は、おおざっぱに、ソドミー、ホモセクシャリティ、という名称で、通用していた。

だが、後に、儀礼的ホモセクシャリティ、と呼ばれるようになった経緯がある。


初期のカテゴリーの侮蔑的意味合いが指摘されるようになり、またアイデンティティを示すカテゴリーとして西欧で用いられる、ホモセクシュアルと、ニューギニアの習慣との、差異が明らかになるにつれ、私は次第にニューギニアにおけるその習慣の実際の経験と文化的意味により近い、文化的概念が必要だと考えるようになった。

ギルバート


それが、少年に精液を与える、儀礼である。


それは、快楽を二の次として、重点は、少年を成長させ、男性化することに置かれていることである。


その方法として、自分自身では作り出せない精液を、少年の身体に与えることが中心となっていた。


この習慣によって、若者は戦士へと成長し、公式の、そして秘密の儀礼的行事における社会的能力、生殖能力を与えられ、それゆえに、結婚し、子孫を残すことが出来ると、された。

更に、先祖伝来の、神聖な伝統を継承できるように、彼らを導くという役割を、この習慣は担っていたのである。


少年に精液を与えるという儀式は、太古から、この地域一帯で広く伝承されてきた。


植民地以前、およそ60に及ぶ個性豊かな文化に、この形態のセイム・ジェンダー関係が存在していたのである。


報告例は、ニューギニア沿岸部、ニューヘブリス諸島の離島の一部、そして伝統的な姿を留める、オーストラリアのアボリニジ族の部族に及ぶ。


60という数字は、体系的調査の対象となった、この地域の社会の10から20パーセントに相当する。


それらの部族集団には、パプア南西部、現在のインドネシア、イリアンジャヤ州、マリンド・アニム族、ニューヘブリス諸島、現在のバヌツバ共和国の、ビッグ・ナンバス族、イースト・ベイ、ソロモン諸島、バルヤ族、ゲブシ族、が含まれる。


多くのニューギニア諸文化の世界観では、あらゆるセクシャリティを理解するうえで身体と体液は極めて重要なものである。この地域独特の文化的モデルによれば、精液は生命の霊液であり、また成長や幸福の主な構成要素と見なされ、また男性性や戦士としてのパーソナリティの創出には精液の介入が不可欠とされていた。

ギルバート


以下、簡潔に書く。


男にとって必須の体液である精液は、男性性の発達過程に不可欠であり、女にとって必須の体液である血液や、子供の養育に必要な母乳を与えることと、同じ価値を持つ。


更に、精液には、それ自体が呪術的な力によって、姿を変え、母乳や胎児の組織、筋肉となり、成長する子供の身体的、精神的発達に必要な、他の構成要素となるというものである。


それゆえに、多くの社会では、精液を与えられなければ、少年は、期待される男性像へと、成長出来ないと考えられていた。


問題は、以下である。

精液を作り出す能力は、男の体に、自然に備わるものではないとの考え方である。

儀礼により、適切な道徳原理に従った、社会的関係によって、精液が、文化的に植え付けられる必要があった。



これは、つまり、迷信を超えたところの、部族の社会的伝統によるものであると、言える。


驚くことは、女は、精液の授受によって強化され、母乳を授かると信じる。その行為は、夫との、オーラルセックス行為である。


そして、女は、男より、完成されたものであるとの、認識であり、男は、不完全だという、現代の生理学によって、証明された、意識を持っていたことである。


男性優位な文化にしては、奇妙であると、ギルバートが言う。

学者たちの間でも、長年に渡り、推論、解釈が続けられてきた様子である。


何にせよ、それぞれの文化に対する、敬意を持って調べると、一つの考え方、また偏狭なものの見方では、理解が出来ないということである。


だから、一口に言うことが出来ないのである。


それぞれの、民族の伝統とは、異質に感じられことが多いが、それは、何も性関係に言える事ではない。

例えば、食文化なども、他民族の習慣が、異質だと感じることがある。


日本の食文化には、鯨を食べると言う習慣がある。

それを、誤りだとする、キリスト教白人たちの、思い上がりも、甚だしい。更には、その昔、彼らは、油を取るために、鯨漁を盛んにしていたという、事実である。


そこには、何の反省も見られない。


人のセックスを笑うな、という言葉があったが、まさに、その通りである。

何度も言うが、百人百様の様がある。