玉砕269

上海に上陸した陸軍部隊は、二万を超えるトーチカ群と、防御陣地に拠る20万近い中国軍と、死闘を繰り広げる。


中国軍の主力は、ドイツ式訓練を受けた、新式装備をもって、中でも優秀なチェコ銃と呼ばれた軽機関銃に、日本軍は悩まされた。


9月9日、三個師団、一個旅団の増派により、ようやく前進を続け、10月26日、要塞大場鎮を攻略して、上海は、ほぼ日本軍の制圧下になった。


だが、大損害である。

戦死、4万1千余人、負傷者、3万1千886人である。


中国軍は、死傷者、約40万人と見られる。


11月5日、三個師団からなる、第十軍が上海南方60キロの杭州湾に奇襲をかけ、中国軍の背後を断つ。

これで、中国軍は、一気に崩壊した。


そして、南京方面に向けて、敗走した。


11月28日、参謀本部は、南京攻略の決定を下す。

その訳は、蒋介石が、ドイツ大使トラウマンの仲介による、和平案を受け入れず、抗戦を続けるので、戦争終結のためには、策源地の南京占領が必要とのことである。


12月1日、松井岩根中シナ方面司令官に、南京城攻略命令が下令された。


敗走する中国軍を追撃しつつ、進むのである。


12月9日、南京を包囲する。

降伏勧告文を、南京防衛軍司令官宛に、飛行機から投下する。


この日本軍の最後通知と時を同じくして、南京を戦禍から救おうとの試みが、南京城内でなされていた。


12月9日、蒋介石に対して、休戦協定が南京安全地帯国際委員会から、持ち掛けられる。


休戦協定案は、国際委員会がシナ軍に、南京からの平和的撤退を要請し、日本軍の無血入城を図るというものである。


だが、蒋介石は、拒否する。


日本軍の最後通知の期限が切れるが、中国側からは、回答が無い。


そこで、午後一時、日本軍は、南京城に対する、全面攻撃を開始する。


激戦だったが、形勢絶望と見て、唐生智司令官は、12日20時、部下を見捨てて、逃亡する。

司令官が逃亡するというのは、中国軍では、よく聞くことだ。


13日、南京は陥落する。

だが、司令官の逃亡で、シナ軍は混乱しつつ、城外に敗走する。


敗走の過程で、中国軍督戦隊による、中国兵の殺害が多発する。

これも、よく聞くことである。


逃げきれないという、状態に陥る。


軍服を脱いで、安全地帯に隠れるという戦時国際法違反を犯し、後で摘発されて、処刑されるというケースが多かった。


しかし、南京城では、戦闘そのものが起こらず、安全地帯以外には、人を見ず、というのが日本軍入城時の事実である。


城外では、脱出した部隊と、日本軍の間で、激しい戦闘が起こったが、城内は、平穏である。


また、日本軍は、全軍が入城したのではない。

各部隊の選抜された、一部部隊が、入城した。


最初に入城したのは、一万以下である。

混乱はない。


そのことは、同時に入城した、150名近くの、日本の記者、カメラマンが伝えている。


ただ、入城した部隊の兵士たちがいぶかったのは、城内が森閑としていることだった。


南京市民は、ほぼ全員、国際委員会が管理する、安全区に集まっていたからである。


その数、20万人である。

安全区以外の場所には、市民はいなかった。


南京国際委員会とは、非戦闘区域を作り、市民の安全を確保することを目的として、南京に残った、アメリカ人を中心とした、欧米人によって11月29日に発足した、委員会のことである。


委員長は、ドイツ人のラーベ、委員は、アメリカ人が七名、イギリス人が四名、ドイツ人が三名、デンマーク人が一名、計15名である。


そこで、南京大虐殺という、大嘘の話があるが・・・

全く、根拠がないものである。


そんなことが起きれば、150名ほどの、記者、カメラマンが見ているはずである。


そんな記事は一つもない。

例えば、当時の朝日新聞の記事では、平和甦る南京、である。

それ以降も、南京城内親善風景として、南京は微笑む。

手を握り合って越年「日に深まる日支親善」との連載。


現在の中国共産党が建国した、中華人民共和国、というのは、漢民族の国である。

そこで、中国人とは、現在は、漢民族として、認識する。


漢民族は、嘘を平気で言う。

自らのためには、嘘も、平然と言ってのける、民族である。


更に、共産主義というものを、俯瞰すれば、目的のためには、手段を選ばないということ。


一神教の宗教と、共産主義が、どれほどの人を虐殺したのかは、御覧の通りである。

同じ数だけ、人を殺し続けて来た。


漢民族にして、共産主義である。

呆れるばかりの、集団になる。