国を愛して何が悪い225

寝るが中なる夢の世は、今に始めぬ習ひとは知りながら、数々目の前なる心地して、老の涙もかきあへねば、筆の跡さへ滞りぬ。

神皇正統記


北畠親房は、後醍醐天皇の死のくだりまで来た時に、このような感慨を記して、落涙した。


正中の変から、笠置山潜行、隠岐への流刑、脱出と建武中興の成立、その破綻から吉野山への遁入、そして崩御と、波乱にとんだ十年の歳月を省みての、万感の思いである。


親房は王朝の残夢に生き、尊氏はいわゆる北朝の悪夢のうちに彷徨しながら、互いに敵味方に別れて戦ったわけだが、どちらの場合も、収拾の不可能な異常事態ははっきり見えていたであろう。権勢と土地収奪をめぐる武家たちの際限のない欲望と、嫉妬や反目と、この事実の前に双方とも途方にくれたであろうし、敵だけではなく、味方自身に絶望したことはたしかだと思われる。

亀井


親房は、明確な政治理想と、それを裏付ける倫理を持っていた。

神皇正統記は、史書の形を取っているが、内容は、皇統の正統派確認のための、宣言であり、伊勢神宮の系統をひく、儒学風の倫理的色彩の濃いものである。


凡そ政道といふ事は、所々に記し侍れど、正直慈悲を本として決断の力あるべきなり。是れ天照大神の明らかなる御教なり。決断といふにとりて、数多の道あり。・・・

神皇正統記


その後で、続く文は、

一には、其の人を選びて官に任ず、官に其の人ある時は、君は垂供して座す。然れば本朝にも異朝にも、是を治世の本とす。

二には、国郡を私せず、分かつ所は必ずその理のままにす。

三には、功あるをば必ず賞し、罪あるをば必ず罰す。是れ善を勧め悪を懲らす道なり。是れに一も違ふを乱世とはいへり。

神皇正統記


この三か条は、当時の政治、軍事の実際とは全く、相入れず、ことごとく武家の露骨な野望に直面して、破綻した。

そして、更には、味方の方にもあったのである。


神皇正統記は、全編ことごとく懊悩の炎と言っていいほどで、武家への徹底的な不信によってつらぬかれた絶望の書であるとともに、結果としてみれば「王朝の遺書」である。

亀井


親房の、最も書きたかったことは、武家の位階昇進と、恩賞を巡る激しい野望である。

そして、それに直面した人の、心痛と怒りである。


足利側だけではない。

宮方の、公家武家に対しても、同様である。


更に、親房は、歌を詠む。


かぎりなく 遠く来ぬらし 秋霧の 空にしをれて 雁も鳴くなり


かた糸の 乱れたる世を 手にかけて くるしきものは わが身なりけり


心は、歌に現れる。

御覧の通りである。


さて、それでは、その主人公ともいえる、後醍醐天皇に関して、亀井氏は、その状況、心境を延々と述べるが、私は、その歌詠みから、見る。


正中の変から、吉野潜行までの、十年間、帝の夢の、いかに執拗なものであったか。


笠置山潜行、隠岐島からの脱出、花山院からの逃亡など、この三件は冒険の連続である。奇跡のような出来事もあった。


当時の無秩序状態からも、察せられる。

この経験から推測すると、矢張り、最後まで吉野脱出と、京における王政復古の夢は、捨てなかったのである。


しかし有能な側近を次々と失って行った。・・・

武家軍の統率と内政の確立にかけて卓抜な公家は一人もいなかったことは致命的であった。「さして行くかぎりの山を出でしより、天がしたにはかくれがもなし」太平記の一首は、あたかもその後の流離の運命を象徴しているように思われる。どういう孤独が帝の心に宿ったか。

亀井


ここにても 雲居の桜 さけにけり ただかりそめの 宿と思ふに


花に寝て よしや吉野の よしみづの 枕の下に 石走るおと


都だに さびしかりしを 雲晴れぬ 吉野の奥の さみだれの頃


臥しわびぬ 霜さむき夜の 床は荒れて 袖にはげしき 山おろしの風


こと問はむ 人さへ稀に なりにけり わが世の末の 程ぞ知らるる


露の身を 草のまくらに 置きながら 風にはよもと 頼むはかなさ


ただかりそめの宿、と、歌うように、再び、京に入る日を夢見る。次第に、寂寥感を増し、ついに、死を目前にするまで、当初から最後まで、帝の心境は、これらの歌に尽くされていると、私は見る。


隠岐島に、十九年の流刑生活を送った、後鳥羽院の歌を思い出す。

相通ずるものがある。


つまり、それは、王朝の終焉の調べであるとも、言える。


南北朝は、それぞれに天皇を擁立して、半世紀の間、対立抗争するが、実質的には、足利幕府の成立期である。


両朝、いずれにせよ、武家の実力は、動かすことが出来ない程に、強力になった。


この内乱を、見続けていた、庶民は、どんな感情を抱いたのか・・・

天皇が、二人存在するという、状態である。

それも、武家の争いの中に於いて。


京を中心に、北朝を巡り、足利武士たちが、いかに驕慢と豪遊を極めたか。それがあまりに酷く、建武中興当時の公家、官軍軍律の頽廃など、忘れ去られた。


そして、結果的に、

後醍醐天皇の「侘び死」への同情や畏怖の念が起こったことを注目したい。

亀井


太平記では、「先帝崩御の時、様々の悪相現じ」「其の神霊御憤り深く」と夢窓が述べたことが載っている。

夢窓は、禅宗の僧である。


尊氏は、帝個人に対して、何の怨念も抱かず、反逆心もなかった。

足利側の武将たちの間にも、天皇の祟りへの恐怖が起こったことは、事実である。


室町期がはじまる。