神仏は妄想である555

中国仏教の、浄土教を俯瞰している。


クラマジューバは、道安没後の長安に、国師として迎えられ、後泰の国家事業として、多数の天下の学僧を集めて、大乗仏典翻訳と、講義の事業は、中国が大乗の国に進む方向を決定した。


日本をはじめ、朝鮮、極東漢訳仏教圏を、南方仏教と異なる、大乗仏教の国として、同時に、浄土教的思想信仰を、濃厚に浸透させた。


南方仏教とは、小乗仏教である。

しかし、現在から見ると、仏陀の教えは、小乗にあると、見る。


人間の妄想力によって、成り立ったのが、大乗である。


実に、仏陀の教えに、遠くなったものである。

何せ、仏陀が言わなかった、妄想の仏を多く作り上げたのである。


阿弥陀仏とは、アミターバという、光のことである。

その、光を、阿弥陀仏に象徴させて、拝むという行為よりは、太陽崇敬の方が、まともである。


人間とは、哀れなものである。


話は、まだまだある。


最後に、「観無量寿経」である。

五世紀半ばに、カーラヤシャスによって、訳され、いわゆる、これで浄土三部経が成立した。


そして、六、七世紀になり、その講義普及が盛んになる。


この経典は、人間として、最も深刻な矛盾、有名な王舎城の悲劇に始まる、浄土往生の実践行を説く経典である。

盛んに講義され、注釈も続出して、僧、俗、庶民にも、喜ばれる経典となる。


庶民の救済を忘れぬ、隋末、唐初の、道綽、善導の、浄土信仰を導く第一の経典となるのである。


なお、これら阿弥陀仏や、その浄土を説いた浄土経典のほかに、これらの経典と並んで、続々と、翻訳された大乗仏典は、阿弥陀浄土に関係して、その往生を勧める経典が多くなり、古くから、浄土教研究者が、諸経の賞賛する所は、多く阿弥陀にあり、というのは、漢訳仏典に関する限り、虚言ではないと、研究家が言う。


中でも、最もよく賞賛された、法華経に例を見れば、クラマジューバ以前に出て、普及していた、大月氏の、竺法護訳の、正法華経には、

もし女人あり、五濁世の最後末俗において、この経法をききよく奉行するものは、ここに寿終して安養国、つまり、極楽浄土に生じ、無量寿仏の諸菩薩眷属に入るを見る。

とのことである。


男に対して、罪障深しと卑しめられた女の、末世の女の阿弥陀浄土への、救済を説いているのである。


つまり、題目をする法華経というイメージはない。

法華経も、阿弥陀浄土信仰へも、誘引するものであった。


これを、日本の法華経を奉じする者たちは、知らない。


日蓮などは、念仏を徹底的に、攻撃したが・・・

本当は、中国仏教では、法華経さえも、浄土極楽の思想を、勧めていたのである。


日蓮宗が聞いたら、泡を吹くだろう。


実は、天台宗は、それを行っていた。

念仏行である。


教義、教えというものは、どうにでもなるという、ことである。

実際、念仏も、題目も、何の変わりも無い。

ただ、音が違うだけ。


題目は、それが、音としては、元気が出るということだ。

山登りをするときは、題目を。

静かに、物を考える時は、念仏を唱えるといい、という程度である。


ナムミョウホウレンゲキョウ=ナンミョウホウレンゲキョウ

ナムアミダブツ

唱えてみると、勢いが違う。その程度。



中国浄土宗始祖と仰ぐ、慧遠の浄土教の性質を少しばかり見ることにする。


西方安養国に阿弥陀仏があり、その国には王制や階級などなく、仏が君であり、三乗が教えである。

男女はおのおの蓮華の中に化育して、胞孕の穢れもない。・・・

今のような末法でも、仏の正戒を奉じ「阿弥陀経」を読誦し彼の国に生まれんと誓い、誠心かわざれば、命終わって彼の国に生まれ、仏にまみえて神悟し、即ち道を得る・・・


老荘思想家でもあった、慧遠は、阿弥陀浄土と、道家的理想国家との類似に、共感を覚えたという。


彼自ら、必ずしも、専心に浄土往生を求める、純浄土行実践者ではなかつたが、当時の不安無常の社会と、道義頽廃した、政治、社会を見て、隠者的求道僧であった。


遠い西方の、阿弥陀浄土に、死後を託す願望が、浄土経典から導かれたという。


彼の、貴族社会、仏教界における指導的立場を考えると、阿弥陀浄土詠嘆は、貴族知識層にも、大きな影響と感化を及ぼした。


また、四世紀には、阿弥陀仏像を本尊とする、大堂も出来、「法華経」「無量寿経」の二部を持って、自らの、信仰の拠り所とし、身をもって、実践した、法曠、ほうこう、のような指導者がいた。


現在の日本の、浄土宗、あるいは、浄土真宗と、日蓮宗が、合体したような信仰である。


仏教には、様々な人を導くために、その教えが、三乗として分かれて、説かれるというが、法華経は、そのすべてが一乗仏、つまり、成仏の一途に帰一させることを、明らかにした、仏陀の教えの帰結だと信じると共に、現在の死は、無量寿仏の浄土に、続いて生きる。

その楽土で、仏道を完成するという、法華経の、あらゆる修道を究極の一乗仏に帰入させる世界であるとした、教義を信仰した。


これは、法華経の道場である、比叡山から、恵心僧都の、往生要集、法然の浄土宗を生み出したことを考えると、法華経と阿弥陀信仰との、親密性の源流がある。


と、いうことで・・・

本当に、呆れる様である。


ここまでに至ると、妄想も、たいしたものである。

現在では、考えられない程の、狂いであると、言う。


誠に持って、このようなことを、考えていた時代は、幸せだった。

つまり、味噌も、糞も、一緒だったのである。


何度も言うが、日本の仏教は、中国仏教により、成り立ったのである。

それを、忘れてはならない。