神仏は妄想である556

中国浄土教の成立を俯瞰すれば、日本の仏教が、いかに誤っているかが、解る。


だが、中国仏教が正しいという訳ではない。

その、迷いの転変を言う。


中国浄土教の始祖とされるのは、慧遠である。


1268年、浙江省の僧、志磐が著した、仏祖統紀54巻は、中国僧がまとめた、仏教史である。

その第26巻に、浄土立教志がある。

それによると、浄土教の七祖を列挙している。


七祖の間には、教義上の師弟関係はなく、浄土宗宣教史の有様である。


どの人も、浄土信仰の教化に尽くした人で、近代までに、12祖を継ぎ足している。


中国浄土宗始祖と、今日まで尊敬される、慧遠は、日本浄土諸宗の展開には、直接関係がなく、かつ、浄土教義とは、認めがたいが、中国浄土教史からは、逸脱し得ない人といえる。


慧遠の、念仏結社の浄土教信仰は、日本の源空、親鸞らが宗派とした、他力念仏信仰とも、日本浄土宗開創を導いた、魏末の曇鸞、初唐の道綽、善導師弟の、浄土教とも、性格を異にする。


源空、つまり、法然が、慧遠の浄土教は、自分が浄土開宗について、師と仰いだ善導の浄土教とは、異なる別の一派であると、喝破している。


それでは、慧遠の浄土教とは、何か、である。


これが実に、面白い。

結論を言えば、禅と念仏の融合である。

道元が、念仏宗を、ただ、蛙が鳴くことと、一緒だと批判したが・・・

実は、禅と、念仏を一緒にしたのが、慧遠である。


中国古典の学生となり、洛陽に遊学していた慧遠が、戦乱の中で、現実の仕官生活の絶望、思想の苦悩が募り、道安に出会い、般若経の講義を聞いて、「この人こそ、わが真の師。この人の説く仏教こそ、真の道の体得する学。従来の中国の諸学は、糟糠に過ぎなかった」と、感激して、剃髪出家を決行して、道安の側近となり、修学を続けて、師と共に、戦乱飢饉の中で、山野流転し続けた。


齢46歳、379年、前泰軍の攻略により、老師と引き離され、道安は、遠く長安に去った。


その後、慧遠は、道安の般若経の「空智」の追求、その実践を受け継いで、行為した。


老荘の哲学を好み、達していた慧遠は、老荘の「無」を超える、空教学の探求と体得を、道安指導の下に続けた。


道安、慧遠の大乗、般若経の提唱する、空智体得への精進は、終生変わらず、続ていた。


その体得のための、実践行とは、特に道安が強く勧めたものは、禅観である。

心想を統一して、不動寂一ならしめる、禅定であった。


そして、般若の空智を禅観実践により、体得するための、道場を作る。

それが後に、123名の阿弥陀仏の、念仏実践道場、白蓮社念仏道場となったのである。


日本の禅宗と、浄土宗は、別物という意識があるが・・・

中国では、それが、一緒だったという証拠である。


さて、結社念仏は、主として、最初の「般若経」訳者であった、シルカセンの訳と伝える、般舟三昧経、はんじゅさんまいきょう、によったもので、これも、般若経思想を踏まえた、初期大乗の浄土経典の一種である。


浄土三部経より、やや早く成立した。

十方仏国の現在諸仏を問いて、その諸仏を空智の悟りを求めて、真剣に、修道している菩薩=悟りを求める人が、その修行の場である座を、立たずして見ることを得て、法を聞き、疑惑を断ち切る禅定境地に入る、方法を説いている。


般舟三昧とは、梵語の、プラチュトパンナ・サマーディの音訳で、諸仏が現前する禅定三昧という意味である。


現在仏悉在前立定、げんざいブツシツザイゼンリュウジョウ、現在する仏が、ことごとく前にあって、立たれる定、という。


仏告ぐ、一法行あり、常に当に習持し、常に守って余の法に随うな。諸の因徳の中にも最も第一だから。第一法行とは、現在仏悉前立三昧である。

と、経典に言う。


この定を達成するために、専思念仏の対象として西方浄土に現存する阿弥陀仏を選ぶと、経典に言う。


実に、呆れてしまう。

この、妄想と、思い込みは、ただ事ではない。


念仏三昧を誓った、僧俗同志が作った詩を集めて、念仏三昧詩集序というものを、書いているが・・・


三昧とは、思いを専一にし、想を寂めることをいう。思いが専一であると、志は一にして分散せず、想が寂かであると、気は虚となり精神は澄わたってくる。気が虚となれば智はその照を安静にし、精神が澄み渡れば如何なる幽微な道理にも透徹する。


いろいろの三昧があってその名称の極めて多いが、その中で一番すぐれた功徳をもち実行し易いのは念仏が第一である。

との、結論である。


兎に角、最初の浄土教的なものが、中国仏教、それも、大乗の教えにあったと言うことである。


勿論、それは、日本の浄土思想には、何の影響も与えなかった。

その後の、浄土思想が、日本の浄土宗に与えた影響が、大きい。


この、妄想の様を紹介するために、少しばかり、書いた。


東洋哲学の学者などが、学ぶ事柄である。

だからといって、何だ、ということになるが・・・


如何に、仏というものが、作られていったかという、過程である。

人間の妄想力が、作り上げた、仏、というものである。


それを、観想するのが、修行と言うが・・・

幻想、妄想の内に在ることである。


もう少し、中国の、浄土教を続ける。

いずれ、日本の浄土教につらなる、浄土教まで、である。