神仏は妄想である557

慧遠は、廬山が秀でるように、中国仏教界から、浄土宗始祖と尊ばれた。


その念仏結社は、僧俗の秀逸が多かったと言う。

その影響は、大きく、確かに、中国浄土教史の初期に特記されている。


しかし、その結社が、般舟三昧経に依る限り、日本の浄土諸宗のような、他力本願でもなく、衆生をすべて救うという、全人類の救済を目指す、浄土往生教でもない。


それは、選ばれた賢人隠者の宗教である。


かつて、全人類を救うという、仏の車に乗せようと、人類愛に燃え、他のために、身命を捧げるという、慈悲行を誓願した、菩薩行としての、大乗仏教運動ではない。


ただし、私は、その救済観こそ、大きな誤り、妄想であると、判定する。


衆生を相手にしない、小乗仏教という、賢人の宗教に、対して行動した、大乗である。


慧遠の浄土宗は、その小乗に逆戻りした、感がある。


廬山の各員は、持戒も固く、教養も高い。

般若智に向かって、自力によって、精進し、念仏三昧に入る。

そして、その座で、仏を見て、疑念を晴らし、西方阿弥陀仏に、専念するのである。


そこには、選ばれた者という意識がある。

中国的、士、の意識であるという。


それでは、曇鸞、道綽、善導によって、六世紀から七世紀、北魏末から、唐初期、に渡り、中国華北に大成された、浄土教は、遠く、海を隔て、時を隔てて、13世紀、法然、その門下によって、信仰され、日本浄土教諸宗成立となる。


この浄土教の信仰は、まず、現在社会を生きる、すべての人々と、その社会への深い内省と、分析から成る。


そして、その共通性を、罪悪社会において、罪にまみれた凡夫、罪人に見出すという、自虐から成り立つ。


その罪の意識は、キリスト教の、原罪に見る如くである。


貪り、瞋り、愚痴から、無数に派生する、迷い、つまり煩悩を、自力で断ち切ることは、不可能であるという、諦観である。


この世は、穢土であり、穢土に生活する人は、共通する事実は、罪悪過誤にまみれた人生である。

現実の世界では、すてべの人は、自らの力では、悟りの理想到達を遮断されているという、考え方である。


たとえ、大乗仏教の求道者、つまり、菩薩の誓願を発して、すべての衆生を救うという、大願を起こしても、修行を行っても、突破し得ない、罪悪の壁にぶつかる。

理想を達成できないばかりか、誓願も崩壊する。


そこまで、深く自己を内省し、分析して、現代を生きる一切の衆生をもらさぬ、浄土信仰を勧めるというもの。


自力による、悟りが得られないのが、現実社会であると、考えるのである。


浄土教では、厭離穢土と言う。

そして、そこから、欣求浄土という、言葉が生まれる。


この世を厭い、あの世、浄土を願うという、信仰である。

それによって、すべての衆生を救うという、大願である。


実に、呆れるばかりの、思想である。


人間を、そこまでに、貶める、信仰である。


厭離穢土、自力絶望から、人間を蘇らせるものは、強い生への欲望から、湧き上がる、欣求浄土への、世界。

仏の、大慈悲、つまりそれは、本願他力に当帰する信仰である。


日本の鎌倉仏教は、別エッセイ、国を愛して何が悪い、で、書いているが、日本の精神史の、空前絶後ともいえる、時代である。


つまり、日本の仏教が、出来上がる時代であるとの、認識である。

仏教伝来から、ようやく、日本独自の仏教が生まれたということだ。


研究家は、言う。

「厭離穢土、自力絶望」と「欣求浄土、他力当帰」とは表裏一体の信仰で、生きんとする人間の根本願望から生まれる。「厭離穢土」を飛躍台として、真実心に浄土の永生を悦び求める信仰によって、破綻絶望の淵を飛び越えることができるのである。


冗談ではない。

もはや、そんな時代ではない。


ここにおける、阿弥陀仏、阿弥陀如来とは、一神教の神に似る。

勿論、汎神論的、神ではあるが・・・


観無量寿経、では、仏心とは、大慈悲これなり、とある。


無量寿経では、阿弥陀の無量寿と共に、その光明の無量なることを、ことさらに、称揚する。


実際は、インドの太陽信仰から出たものである。

無量寿光とは、太陽の光である。


アミターバとは、太陽光である。

そこから、阿弥陀信仰が出来上がった。


阿弥陀仏とは、仏陀の口から出た、ホトケの名ではない。

そんな、仏の名など、発したことも無いのである。


大乗仏教とは、インドの様々な伝承、そしてバラモン教、現在のヒンドゥー教の教えから、取り入れたものを、勝手に解釈し、勝手に、経典を作り、仕立て上げたものである。


だから、お話しなのである。

それが、とんでもないことになった。


神話という、素晴らしい、文芸作品がある。

しかし、経典とは、文芸ではなく、真実だと信じる人たちがいる。


つまり、迷いの中に、放り込まれる人たちである。


ここでは、中国仏教の様から、日本の仏教を見ている。

もう少し、中国仏教の有様を見る。