生きるに意味などない147

もちろん、この「色」つまり存在物には、私自身も含まれます。ということは、私という存在も無であり、空と考えなければなりません。確かに確固たる自我などどこにもない。自我の意識など一度捨ててみよう、ということになる。自我に囚われるから、他人を嫉妬したり、嫌な他人を謗ったり、貪欲にモノに執着したりする。だから苦しくなるのではないか。つまり人生の苦の根本原因は自我への執着であり、それが外に転じて外界のモノや他者への執着になる。それを一度は捨てよう。すると、無我のなかから、何ものにも囚われない、もっと融通無碍で、外界や世界を素直に受け止める「自己」がたちあらわれてる、というのです。鈴木大拙が好んだ言い方を借りれば、「私は、私ではなくして、私である」。つまり、自我を一度は否定して、はじめて本当の自己がでてくる。

佐伯


上記は、まさに、説教である。

こんな説教は、私など、延々と出来る。

宗教の教義を持ち出せば、幾らでも、言えるのである。


知らない人には、有効かもしれないが・・・


自我を否定して、はじめて、本当の自己が出てくる・・・

本当の自己とは、何か。


自己が本当のものか・・・

嘘である。

自我、自己も嘘である。

そんなものは、無い。空である。


これは、単なる言葉遊びになる可能性大である。


だが、それでも、それを成すことは、容易ではないと、言う。

つまり、人間とは、その程度であるということだ。


自我を離れ、執着を取り去ろうとする、それが、理想なのかと、疑問に思うのである。


自我も、理想も、妄想である。

そんなものは、無い、空である。


一体全体、人生の苦から、逃れようとするという、仏陀の教えが、正しいものか。

何故、苦、というものを、感じるのか。

呆れるほどである。


生まれたことも、苦。老いることも、苦。病も、苦。死も、苦。

それを観た、仏陀は、覚者になった。仏に成ったとのこと。

実は、それも、妄想である。


無、空とは、それも、無いのである。


そんなことを考えている暇に、種の一つでも、植えたらいい。


もともと仏教にとって、「空の思想」は一種の認識論であり、哲学であり、形而上学でした。つまり、この世の現象を説明し、その上で、この世の苦から解放されるための実践論の基礎のようなものだったのです。しかし、われわれは、これを純粋な認識論や形而上学ではなく、「この世のすべて空しきものと知る」などといってある種の無常観や自然観と重ね合わせて了解した、といってよいでしょう。

佐伯


この世の苦・・・

それも、妄想である。

そして、苦として、感じて、何事か、それを生きると言う、決意の元に、あるいは、その中で、生きていると、力むという、馬鹿馬鹿しさである。


日本の精神は、そんなものを、超越して、無、空というものも、超越していたのである。


今更、何を言うのか。


だが、その日本の精神を知らない。忘れた。

万葉集に、立ち戻って考えればよい。


万葉集の苦は、好きな人と、セックスが出来ないというのが、唯一の苦だった。だから、私は、万葉集を勧める。


無常観は、その後、無常美観となり、文化芸術の中で、昇華されてゆく。

何と、日本人は、それを美観にまで、高めた、深めたのである。

何故か・・・


それは、日本人が本来持っていたからであるる

そして、その仏教から得た、無常観は、大きく変形して、日本人の無常観となった。


仏教の無常観は、言葉遊びのものである。

しかし、日本人は、それを生活の中に取り入れた。

仏教を受け入れて、そんなことをした、民族は、日本人だけである。


つまり、仏教からの無常観は、変質して、本当は、無常観でも、なんでもなくなったのである。


一体、何が、無常観なのであるか・・・


常が無い・・・

当たり前である。

生きていれば、常が無いのである。


仏教から、教えられるまでもないこと。


この世はすべて空しきものと知る・・・

と、日本人は、考えたというが。


それは、虚しいがあり、空しいのである。

そして、言葉として、虚の方が、びったりとくる。


虚無である。ニヒリズムという言葉があるが・・・

その虚無も、妄想である。


実体が無いという、仏教からならば、無も、虚も、空も、無いのである。

つまり、何も存在しないと、考えるとよい。


それなのに、目の前には、花がある、樹木がある。

実は、それが、私なのである。


私は、無、空、虚であるが、目の前のものが、私であるということだ。


私の目の前の人が、私であり、私の目の前のもの、すべてが、私である。

それを、悟りという。


つまり、私は、無、空、虚である。

私という、意識など、何処にも無いと分かる事、それが、悟りであり、救いである。


だから、語ることは、糞でも、食らえということだ。