生きるに意味などない148

専門家から、僧侶、そして、専門外の人たちも、仏教を論ずるが、仏教とは、あまりにも、広大な教義があり、つまり、こじ付けの理屈があり、実に、面白い。


佐伯氏も、その仏教の、般若の思想から、云々するが・・・

死ぬまでの、暇潰しである。


だから、皆々、何となく、解ったような思いになり、騙される。


何せ、苦からの解放を言うのである。

つまり、最初に、苦、というものを、掲げる。

実際は、その苦も、無であり、空である。


苦、などというものは、無いのである。

一体、それでは、何を持って、苦、というのか・・・


それは、欲望である。

欲望が、苦、になる。

呆れる。


欲望があり、人間の存在がある。

それが、欲望を、苦の本体として、見たのである。


諸法空相、不生不滅・・・

すべてのものには、実体が無い、生も、死も、無いという。


それでは、欲望も、無であり、空ではないか・・・

ところが、そうではないらしい。


欲望が満たされないゆえに、苦が生じるというから、笑う。


空腹では、生きられないから、食う。

性欲を満たすために、セックスをする。

眠りたいから、寝る。

それが、苦の本体である。


どうして、そこから、逃れる必要があるのか・・・

生まれ持ってきた、生きる力が、欲望である。


それを、否定する。

まさに、悪魔の教えである。

更に、宗教は、皆々、そのようである。


仏教は、もともと老死の苦から出発した。その克服を目的にしました。ではどうしてそのような苦が生じるのか、その因縁を明らからにしたのが「十二因縁」であり、その出発点が「無明」と呼ばれるものです。

無明とは、真理に対する根本的な無知ですが、その根本的な無知のおかげで、われわれ人間がもっている根源的な、いわば本能的な欲望にどうしようもなくつきうごかされる。しかも、そのことを知らない。フロイトのいった無意識の欲動のようなもので、それを過去生から受け継いでおり、それについてわれわれはまったく無知なのです。「はじめに無明ありき」で、それがすべての出発点となり、その後の様々な煩悩を生み出し、最終的には、老や生という苦をもたらす、という。

佐伯 改行は私


こういうものを、解ったつもり、という。


何か、解ったような、錯覚に陥らせるのである。

知ることで、超えるというものとは、違う。

知ることで、迷うである。


それでは、何故、生きる。

即座に自害して、果てるべきである。


無用な考えである。

その無用な考えを知り、解ったつもりになさって、生きるという、愚劣極まりない、生きざま。

呆れる。


そこでどうやって無明から逃れられるか。それは無明など本当は存在しない、つまり、空である、と知ることである。

佐伯


こうして、議論のための、議論に陥るのが、仏教、いや、宗教というものである。


キリスト教も、死の克服を言う。

つまり、イエスの復活が、信者の心の支えで、死後も永遠の命を得るとのこと。


これでは、欲望、丸出しである。


生きたい、のである。

そして、言い訳に、いかに生きるのかを考えるのである、という。


無明が存在しなければ、その教えも、存在しないのである。

つまり、墓穴を掘るのが、仏教というものである。


煩悩も、老死の苦も、十二の因果も存在しない。

それを悟れという、教えである。


くたびれもうけ、という訳だ。


そして、また、繰り返し言う。

無明がなくなることもなく、老死の苦がなくなることはない・・・

また、最初に戻りれました、とさ。


無明というものを突き詰めてゆくと、フロイトがいったような生の欲動のようなものに行き着いてしまうでしょう。生命力の一部は、本能的な欲望からでているといってよい。それがわれわれの肉体や感覚を通して、この現実の生に快楽をもたらしたりもし、また苦痛も与える。苦のひとつに五オン盛苦というのがあって、これなど、まさに、生のエネルギーが横溢し元気が良すぎるゆえの苦しみといったところです。しかしだからこそ、老い、やがて死を迎えることはもっとも苦しいのです。

佐伯


五オン盛苦とは、五つの、肉体に備わる、宝であるが・・・


言葉にして、論じることで、何か、救われたと思う心の、浅はかさである。


何故、端的に、生きるに意味などない、と言えないのか・・・

それは、何とか、安心して、生きたいがため、そして、何とか、死の苦みを解消したい。

いや、死ぬまでの、時間を誤魔化したいのである。


死ぬ、その前に、老い、そして、病がある。

その、死ぬための、通り道が、怖いである。

ただ、それだけのために・・・


大いに、語る。

語り過ぎるのである。