死の自覚的な意識とは、この日常的な世俗世界に限界を画することです。・・・死は極めて個人的な出来事であると同時に、その個人などというものを超えてしまう。個人を組み立てている人格性や個性や多様性や差異性など、すべてが普遍的な「死」によって消し去られる。それは確かに恐るべき「絶対的にもの」なのです。
佐伯
夏目漱石も、言う。
ふざけたる者も、襟を正すのが死である、と。
生きるに意味などない、であるならば、実は、死、というものにも、意味が無いと言う。
この発言は、恐るべきものである。
つまり、生死観というものも、意味がなくなる。
この無意味に耐えられる人は、いるだろうか。
そして、死、というものを、見つめずに、生きる人を、酒に酔っていると、言うのは、空海である。
世俗的な世界、つまり精神と物質からなるわれわれの生の現実世界の裏に、あるいは見えない場所に、超越的で絶対的な聖性の世界を見ようとすることを、鈴木大拙は「霊性の自覚」といいました。それは一種の宗教意識といってよいのですが、それを発動させる典型が「死」へ向けられた意識なのです。
佐伯
と、言われると、ある程度の年、つまり、老いた人は、何やら、解ったような気分になる。
私が言いたいのは、知ったということが、気分であるということだ。
それなら、何も知らぬがよい。
霊性、宗教意識・・・
この言葉に騙される人の多いことは、御覧の通りである。
皆々、このような言葉に、騙されて、神仏を拝む。
私は言う。
拝んでいいものは、先祖、祖霊である。
それを、慰霊という。
そして、祖霊崇敬は、日本の伝統である。
宗教を介して、何やら、祈る、拝むのは、邪道である。
宗教は、信じるものではなく、学ぶものであり、批判するものである。
佐伯氏の、論説は、理解するが・・・
知ったか振りになる。
以下
もちろん、日本人は、昔から、巨木や岩や滝などの自然のなかに神聖な超自然的な「カミ」をみ、自然の働きのなかに神秘的な生命をみました。特に、山は古代の日本人にとっては、「カミ」の住む場所であり、霊的なエネルギーの貯蔵庫であり、死後の魂が向かうところでもありました。
佐伯
上記も、何となく読んでいると、解ったような気分になるが・・・
嘘である。
勿論、山は、そのように考えていたが・・・
自然すべてが、神聖な場所であり、その中で、生きているという、自覚である。
欧米、中東の神観念にある、対立はない。
更に、「カミ」という言葉はなかった。
日本の、神は、欧米、中東の神とは、全く別物である。
古代の日本人の、祖霊は、生きている者たちと、つながる存在である。
対立ではなく、延長である。
存在する人間の、延長に、祖霊が存在していた。
それを、今便宜上、神というなら、神と言ってもいい。
日本語、大和言葉の、カミとは、カマ、カム、カミと、系列語である。
カマとは、竈の、カマである。
つまり、煮炊きするもの、である。
生きるには、物を食べるのであり、最も、神聖な行為だった。
そこに、カマの存在を見た。
カマは、現在の神という言葉に、当てはめるもの。
また、生きた人間の駒世界の向こうに黄泉の国のような霊魂を落ち着く場所をみたりしてきた。
佐伯
それも、嘘である。
黄泉の国、とは、道教からのもので、日本古来のものではない。
それも霊性といえば霊性なのですが、その超越的な聖性が自覚的なものにまで高まっるのは、確かに大拙のいうように鎌倉期といってよいてじよう。神道の方でも伊勢神宮のもととなる「神道五部書」などで教義化が進む。しかし同様の霊性的自覚が顕著に、しかも大衆的な規模にまで拡大してゆくのは、なんといっても仏教の興隆が大きいでしょう。
佐伯
単なる知識の、披露である。
鈴木大拙とは、禅宗を英語で欧米に布教した人として、有名である。
更に、その著作は、多い。そして、難解でもある。
だが、出元は、仏教であり、特に中国禅の影響を受けた、禅宗である。
不立文字、つまり、語らぬを心得とするが、語るは、語る、語り過ぎるのである。
語れば、嘘になると、知らないらしい。
仏教の基本は、まず、すべて生あるものは滅するという事実の凝視です。つまり死を凝視し、その上で、生に対する執着を取り去ることです。
佐伯
僧侶のように、言う。
いつまで、こんなことを、繰り返すのか・・・
延々と、人間は、仏陀当時から、語り続けている。
呆れる。
いや、仏陀以前から、語り続けているのである。
人間とは、愚かな者である。
実は、私も悟っている。
私というものは、無であるが、今、目の前にあるものすべてが、私であることを、知る者である。
それで、いて、意味などない、というのである。
すなわち、天地万物は、私なのである。