作家の、佐藤愛子さんが、書く。
以下
もともと私は単純な人間である。自分で自分を「知的」だなどと思ったことは一度もない。私は知的な人間であるからもの書きになったのではなく、ただ苦し紛れにもの書きになった人間だ。さまざまの苦難の経験と「美点か欠点か」正直さが私をもの書きにさせただけだ。私はものを書くことによって栄誉を受けたいと思ったこともないし、世に名声を轟かせたいと念じたこともない。ほかに出来ることがないから文章を書き、誰にも気兼ねなくいいたいことをいえる子の仕事が性に合っていると思って喜んでいる。それだけの人間である。もっと深くものごとを考え、慌てず推理してから行動しなさいとよく人からいわれる。それさえ留意していれば、もっと平穏に損をせず暮らせる筈だと。
そういう人、佐藤愛子さんが、何と、幽霊、霊界について、書かざるを得なくなったお話しがある。
沢山本が出ているので、それは、省略する。
その、佐藤さんの、霊話しを、ある精神科の医者が、病気だと手紙を書いて教えてくれたと、どこかに書いていた。
それを、読んで、私は、その医者こそ、病気だと思った。
幻覚、幻聴、妄想・・・
それらは、確かに、精神病の中にある。
だが、それと、霊的感受性は、別物である。
あくまでも、感受性である。
佐藤さんの場合は、それが、突然、始まった。
気の毒である。
そして、悪戦苦闘の連続。
知り合いの芸能人、美輪明宏さんとのこと、そして、様々な、霊的所作をする人たちに助けられて、ようやく、落ち着いた様子である。
実は、私にも、霊的問題に関して、相談をしてくる人たちは、昔から、いた。そして、私は、その時代、その時代で、対処した。
何せ、友人を通して、頼まれるので、断ることが出来なかった。
書けば、キリないほど、そういう話はある。
霊の存在を、信じる、信じない、以前に、本当に、困っている人たちがいた。
それは、土地、建物、そして、場所等々。
また、ある人には、憑依している霊。
勿論、精神科を紹介した、病気の人も、大勢いた。
その、区分けである。
大変なことだった。
どこまでが、精神病か、本当の話か・・・
それを、判定するのである。
若い頃、私は、そういう能力のあるという人を、尋ねた。
多くは、人格的に、尊敬出来ない人ばかりだった。
あるいは、狂っている、という人もいた。
また、そういう能力を隠している人にも、出会った。
そういう人は、出来る限り、そんな話には、関わらない、ということも解った。
つまり、霊的世界は、とんでもない、世界なのである。
この世の常識が、通用しないのであるから。
佐藤さんも、当初は、半信半疑、いや、疑っていた。
ところが、どうしても、霊の方から、迫って来る。
時に、こういう人がいる。
本当に、気の毒である。
佐藤さんの場合、先祖ことだけではなく、前世も関わっていたので、大変だったと、想像する。
最後に、私も、支持する、神道系の方により、解決したことは、本当に良かったと思う。
そのいきさつに関しては、本を読まれると、いい。
更に、霊界のことにも、目覚めたことは、良いことだった。
人間は、知らぬものは、無いものである。
だから、それを知らぬ者は、霊界など、妄想だと思っている。また、霊など、存在しないと考える。
勿論、死後の世界も否定する。
私は、自慢ではないが、否定する人に、説得する気持ちは、さらさら、無い。
くたびれる、だけである。
霊界など無いという人は、それで、いい。
それこそ、死ねば、解る。
ただし、死んでも、死んだということに、気付かない、気の毒な霊もいる。
多く、私が相手にする霊は、それである。
生きていると、信じ切る、霊は、とても、頑固で、融通が利かない。
それを、私が、引き上げてもらう。
それ以外に、方法がない。
つまり、私の力ではなく、霊界の上から、引き上げて貰うのである。
その、仲立ちをするだけ。
私の力で、霊を、どうこうすることは、出来ない。
だから、兎に角、祈りの力を頼る。
この場合の、祈り、とは、上級霊に対して、行う、儀式である。
だが、特別なものではない。
祭壇も、供物も、何も必要ない。
ただ、私の真心だけである。
そのために、使うのが、祝詞の形の言葉である。
清め祓う、祓い清める・・・
兎に角、祓う、清めるのである。
そして、霊界の上からの、力を乞う。
そして、引き上げて貰う。
ただ、それだけを、行う。
それでも、霊、霊界を、否定する人には、何も言わない。
説明する必要がない。
死ねば、解ることだ。