生きるに意味などない151

仏教の思想を解説する人たちは、実に多い。


専門家だけではなく、僧侶、そして、作家、論者等々・・・


その結果は、この世に、確かなもの、不変なものは、何一つないという、思想になる。

そこで、現世に対する、執着を捨てて、この世の生を超越することである。


生とは、たまたまの因縁が引き起こした偶然の連続だと知れば、生も死も幻と知ることができる。死の恐怖や死の苦痛にも囚われることはない。こうして、死を克服することもできる。つまり、生もなければ生が滅することもないというわけです。

佐伯


更に、

死を克服するというのは、死にやたら囚われ、それを恐怖したり、取り除こうとする意識をなくすことです。それが「不生不滅」または「不生不死」です。生も無ければ死もない。一切は空である。これが実相であり、そこに真理がある、という。

佐伯


こうして、延々と語り続けて来たという、経緯がある。


呆れる。

何故、端的に、生きるに意味などない、と言わぬのか。


このように、この世俗世界の向こうに(あるいは裏側に)超越世俗的世界があることを知るのが霊性の自覚にほかなりません。

佐伯


何を言うのか・・・

霊性も何も、それらも、妄想である。


精神と物質からなる、この世界の裏に、今ひとつの別世界が開けて、このふたつの世界が、互いに矛盾しつつ、しかも互いに、映し合うことが、霊性的直観であると、鈴木大拙は、言う。


その知恵に目覚める事、正覚こそが、霊性の自覚であるとのことだ。


これに、多くの人は、やられる。

つまり、騙される。

解ったつもりになるのである。


ここで大事なことは、霊性の自覚は、何か日常を離れ、世俗から隔離された場所で覚醒するのではなく、まさに日常のなかで直覚することなのです。「空」や「無」において、すべてのものが現成していると直覚することなのです。

佐伯


このところ、さまに道場なり、と教本に書かれる。


まあ、別エッセイ、神仏は妄想である、の中で、散々に書いたことであるから、そちらを参照ください。


呆れる程に、語り尽くして、なおも、語り続けるという、愚劣を繰り返す。


はっきり言うが、日本の大和魂を基本にした、武士道には、朝、今日が死ぬ日であると、心得て、家を出る。


武士道は、死を怖れることなく、淡々として、受け入れる。

つまり、仏教の、まやかしの教えなどは、吹っ飛ぶのである。


例えば、笑うのは、道元などの言葉である。

撒くことも、刈り取ることも、捕ることもせずに、寺の中にいて、坐禅をして、言いたい放題である。


仏道をならうというは、自己をならうなり、自己をならうとは、自己をわするるなり。自己をわするるとは、万法に証するなり

道元


つまり、仏道の真理を知ることは、自己を知ることである。自己を知ることは、自己を消すことである。

自己を消すとは、あらゆる現象のなかにそのまま身を置き、それらによって、覚らされていると知ることである。


自己を知ることができるのは、自我を離れ、この世俗世界の現象のなかで、ありとあらゆるものによって自分を覚らされるからだ、というのです。

佐伯


いやいや、嘘である。

ただの、妄想である。


ただ、意味がないだけの、お話しである。


無意味に耐えられない心が、上記のような言葉の数々で、何とか自分を納得させる。


語ることが、無理だと言われる、真理について、これほど語った人も、いないだろう。

道元が、最高に迷っていた、証拠である。


更に、彼が見た、その世界は、どんな世界だったのか・・・


妄想の世界である。

つまり、私に言わせると、闇の世界、幻の世界である。

ただし、人は、生きられようにしか、生きられないがゆえに、そのように、生きたのである。


それに意味などない、のである。


思想、哲学、その他の、教義を離れて、ただ、自然と同化し、自然と共生して生きるだけが、関の山。


花を見れば、花になる。

竹を見れば、竹になる。


日本の伝統とは、それで、あった。


問い続ければ、狂うのである。

だから、狂う手前で、日本人の心は、妥協した。


平たく言えば、

何の意味もないのだから、まあ、ある程度で考えずに、適当に生きることだと、覚悟したのである。


そして、出来る限り、言葉は少なくして、和歌、俳句のような、短文にて、心の内を、表現した。


月をこそ 眺めなれしか 星の夜の 深きあはれを 今宵知りぬる

健令門院右京太夫


この歌を、解説すると、書き切れないことになる。

それを知るから、短文の和歌にして、表現した。


これを、見事というのである。


欧米の思想、インド思想、その他諸々、日本の言葉の世界には、敵わないのである。