生きるに意味などない152

さて、佐伯氏の、論説も、そろそろ終わる。

何故、佐伯氏の、論説を引用するのか・・・


ただ、権威のためである。

現在の論者が言うことから、それを批判して、更には、非難して、私は、書く。


何度も言われてきたことを、繰り返すという、愚行を何というか。


結局、宗教思想の中から、何とか、救いのある、安心に至る道を探そうとする。

私は、もう、懲り懲りである。


「法句経」に「生はかならず死に終わる」という言葉がありますが、死へ向かう苦や恐怖をどのようにして克服するかは、仏教のひとつのテーマでした。それに対する答えは、まずは死を凝視しつつ、生の実相を知り、生への執着を断つことです。

佐伯


嘘、嘘。

苦も、恐怖も、死ねば終わり。

そのままにして、死ねばいいのだ。


それに意味付けをして、どうするというのだろう・・・


ところが、意味付けをするのである。


それは、自我もまたこの世界の現象もすべてが無(空)である、と知ることです。「自己に固執することをやめ、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死をわたることができるであろう」原始仏典。確かに、すべての存在の根本が無であれば、生も死もありません。不生不滅、不生不死なのです。そう考えれば、死をなくすことはできませんが、死を受け入れることはできるのではないか、という。

佐伯


不生不滅、不生不死・・・

生は非ず、滅も非ず・・・

何とも、上手い具合に、言葉を作るものだ。


すべてのものが生じてはまた滅するような世界、そのなかで、すべてのものが生まれては死んでゆく、その生命的な運動が永遠に繰り返される世界を想定していることになるでしょう。それが不生不滅の世界、生も死もない永遠の世界、すなわち無(空)の世界なのでしょう。だから、空や無とは、何もない、ということではなく、すべてのものがそこにあって常に姿を変えながら運動しているその生命的な運動そのものといえるのでしょう。

佐伯


上記は、何千年前から、言われてきたことである。

そして、今も、繰り返し、伝えられる。

つまり、そのようにして、生死を見つめ続けて来た経緯がある。


結局は、そこにたどり着く。

そして、それで、解ったつもりになって、死ぬ。

死ねば、もう、終わりなので、永遠も何もなくなってしまう。


人間が、永遠を想像できるはずがない。

永遠という言葉も、幻想、妄想である。


つまり、呆れる程に、人間とは、愚かな者なのである。


われわれは、もちろん、この絶対的な無の世界、あるいは真の空に生きることはできません。それはひとつの想像世界であり、ひとつの境地といったものです。われわれが現に生きているのは、俗界であり、穢土とはいわぬまでも、美も醜もあり、善も悪もある相対的世界です。

佐伯


実は、それが、現実の世界であり、それが、本当の世界なのである。

それ以外に、何があるというのか・・・


霊界、幽界・・・

そういう世界を云々する人たちがいる。

当然、その人たちには、存在するのだろうが・・・


実は、霊界、幽界という世界も、幻想、妄想の世界である。

つまり、存在すると言えば存在し、しないと言えば、存在しないのである。


人間の、想念の世界である。

勝手な、幻想妄想の世界として、認識していると、よい。


ただし、私は、その人間の思念、思いの世界を相手にしている。

だが、それを人に対して、伝道はしない。

私一人の、世界のことである。


つまり、私の、妄想の世界である。


しかし、ひとたび、この俗世にありながら、絶対的な無、真の空という万法の実相に思いをいたせば、俗世の現実の見え方が異なってくるでしょう。絶対的な無(空)、あるいは永遠の生命の運動を前提において現実を見れば、この現実の森羅万象が、絶対的な無、あるいは永遠の無、あるいは永遠の生命の、現実への投射であるようにも思えてくるのではないでしょうか。

佐伯


語り過ぎるのである。

説得しているのである。

そして、説教をしている。


宗教の布教のように、語るのである。


生死に意味など、ある訳がない。

生まれた、死ぬ、ただ、それだけのこと。


何故、それを、ただ、受け入れられずに、悶えるのだろうか・・・


結局は、死ぬまでの、その時間を潰すために、延々と、語り継ぐのである。

死ぬまでの時間が、怖いのである。


死ぬのは、いい。だが、それまでの時間が、手持無沙汰なのである。


肉体から、魂が抜け出れば、もう、肉体は、何をされても、感じないし、どうでもいい。

痛くも、痒くもない。


死の瞬間を知らぬことが、怖い。

ただ、それだけのために、こうして、何千年も、語り続けて来た、人間のあわれさである。


日本の精神に、もののあはれ、という心象風景がある。

だから、日本人は、西洋その他の哲学、思想を超えているのである。


もののあはれ、とは、意味がないという意味である。

それを、すでに、体感していた、日本人である。

だから、それを、ただ、思い出せばよい。