国を愛して何が悪い233

その物に能く成る

花鏡


その物になるとは、真似ることである。

そして、真似る事が、芸の極みに行く時に、能楽という、芸術が出来る。


と、まあ、とても簡単そうである。

しかし、簡単ではなさそうな、気配がある。


その姿に先づ成りて、舞をも舞ひ、立はたらきをも、音曲をも、その形の内よりすべし。

花鏡


と、また、簡単そうで、そうではない気配である。


ただ、世阿弥の書いたものを、妄想逞しく読むということも、出来る。


女、老人、直面、物狂、法師、修羅、神、鬼、唐事の九種について、風姿花伝にて、世阿弥が説明している。


「その形の内より」・・・


まず「形」のうちに自己をきびしく限定するのだ。その上で、人間の身体はどこまで柔軟性を発揮しうるか。身体の動きを通して表現しうる造形美の極致とは何か。それをめぐってのあらゆる工夫を世阿弥たちは追及したのである。

亀井


亀井は、道元の禅についてと、比較しているが・・・


道元のここに説いているのは不動の姿勢だが、この「形」のうちに、「不動」を導き入れるにはどうすべきか。これが世阿弥たちの追求した世界だ。

亀井


習ふところの、手を指し、足を動かす事、師の教へのままに動かして、その分をよくよく極めて後、差し引く手を、ちらと、心ほどには動かさで、心より内に控ふる也。

花鏡


身体を動かすときの基本である。舞の場合だが、手を上方へ指し出し、足をすすめ、それを師の教えのままに充分に学んだ後、その手を「引く」とき、ほんのわずか、心に思うよりは控え目にしておけというのである。「心を十分に動かして身を七分に動かせ」という項目の説明だが、身体にある抑制を加えることによって、「心」が結果として余情のようにて匂はなければならない。そのための工夫である。言わば「動」の過程に「不動」を幽かにもちこめと言っているようである。身体のこなし方の原則であろう。

亀井


それは、良く解る。


身をつかふ時、足をぬすめば、狂ふとは見ゆれども、荒からず。足を強く踏む時、身を静かに動かせば、足音は高けれども、身の静かなるによりて、荒くは見えぬ也。

風姿花伝


つまり、心とは反対の動きをするということだ。

強い時は、弱く、弱い時は、強く。


と、知った風なことを、私も言う。


幽玄の物まねに、強き理を忘るべからず。

風姿花伝


強き、ことわり、を忘れるなと、言う。

幽玄の物真似とは、お化けを演じる時である。


お化けの、怨念の強さを、忘れるな、ということか。


さて、私の説を言う。

この、幽玄の、幽は、日本で言う、神様のことである。

日本の神、カミは、幽なのである。


幽玄の、玄は、大元である。

つまり、物事の、元である。


幽玄とは、心霊、あるいは、神霊を言う。


世阿弥の、能舞は、それを成したということだ。

つまり、日本の幽を、何とか、表現したいと思った。

それが、芸の極致だった。


当然、日本の神、幽を表現すれば、極致になる。


室町期に、それが、模索されたということが、私には、重大である。

定義付けを、行為したということだ。


だから、何の幽玄でも、表現出来たのである。

天地万物のすべての、霊を、表現出来たのである。

勿論、現在の能が、いかなるものであるかは、知らないが。


とんでもない、挑戦をしたものである。


ところで、亀井勝一郎は、世阿弥の芸論を、更に論じている。


これらの言葉は、すべて芸における「荒さ」への忠告であり、均等の破れに対して、いかに用心深かったかを示すものであろう。舞と立はたらきを通して、姿の崩れることは致命的だと言っているのである。ここに実感されるのは、練習における汗である。「動き」における原則をこのようにきびしくくりかえしながら、同時に、世阿弥は更に困難な課題を提出している。「舞ひ」のひとつの極致と言ってもいいだろうが、次のような秘伝を見逃すことは出来ない。

亀井


手足をあつかはずして、ただ、姿がかりを体にして、無手無風なるよそほひをなす道あり。たとへば、飛鳥の風にしたがふよそほひなるべし。

花鏡


鳥が風に乗って、翼を張ったまま空に漂っているような姿を、舞のうちにあらわそうというのである。手足を動かさずに、ただ舞姿で立ちあらわれただけで舞の風情をあらわす方法である。

亀井


願わくば、幻想、妄想の類でないことを、祈る。


不動の内に、動を現すということが、どんなことなのか・・・

これは、キチガイである。

狂っている姿である。


「不動」のうちの「動」を音曲が助けているからである。

亀井


少しばかり、救われる、気になる言葉である。


音曲がなければ、ただ、狂人になる。