死ぬ義務36

われわれの人生の最後が「無意味」であれば、その「無意味」というゴールを目指してかけ続けている「生」も無意味ではないのか、という疑念がわいてくる。であれば、「無意味なもの」へ向けて走り続けているこの人生も、ただただ苦痛の連続だ、ということにもなるでしょう。

佐伯


はっきり言うが、私は悟っているので、こんな議論は、本当に、暇つぶしである。

私の悟りは、別エッセイで書いているので、省略する。


さて、いよいよ、ここから、虚無主義、ニヒリズムの話になるから、面白い。

この、ニヒリズムを超えることが出来るのか・・・


遥かに、遠い昔から、人間は、この虚無といものと、戦ってきた経緯がある。

人生は、虚無であるという。


虚、無、である。

救いようがない、言葉である。


そして、極め付けが、仏陀の、生老病死である。

すべてが、苦なのである。


人生は、虚無で、苦なのである。


そんな馬鹿馬鹿しい、人生なるものを、何故に、真剣に生きているのか・・・


私も、その通りだと、思う。

実に、呆れるほどだ。


生きる、とは、悪い冗談である。


かくて、ニヒリズムは、たいていの場合、現世で刹那的な快楽主義をもたらし、まれに、現世からの隠遁への傾きをもたらすことなる。昔のギリシャでいえば、一方に、哲学者のエピクロスに続くエピキュリアン(快楽主義者)が出現し、他方で、哲学者のディオゲネスに続くキニク派(犬儒派)が出てくるのです。

佐伯


その極端を嫌う、仏陀は、中道を説く。

しかし、その中道も、その後の仏教徒によって、訳の分からない議論になった。


仏教も、妄想全開で、手が付けられなくなる。


するとは、佐伯氏は、トルストイを登場させる。

それが、また、面白いので、書く。


その前段階で、

「事実によって証明できて理性によって説明できないものはいっさい認めない」というシュギを「科学主義」というとすれば、私は、「科学主義者」ではありません。それどころか、こういう科学主義者に対しては、ちょっと若作りをして言えば「ムカツク」のです。なぜなら、そもそも「科学」とは、人間の知りうる世界のほんの一部分を一定のやり方にしたがって認識するという「謙虚」な営みのはずだからです。

佐伯


私は言う。

この世は、すべて、仮定の世界なのである。

仮定以外の、何物でもない。


だから、科学的云々とは、ただ、呆れるだけである。


しかも、検証したとしても、命題はあくまで「仮説」であって、それが本当に真理かどうかはわからないからです。科学によって検証できないものはいっさいみとめない、という「傲慢さ」は実に非科学的というほかないでしょう。

佐伯


学問とは、皆々、仮定であり、仮説である。

哲学、神学という、妄想全開のものもあるが・・・


「死んだ後に何が起きるか」は、もはや想定も予測もありえない絶対的に不可知な世界です。事後的検証もできなければ、事前的推測もできません。

佐伯


まともな学者さんが、このように書くと、説得力がある。

まあ、稀に、作家の佐藤愛子さんのように、霊に関して、エッセイを書いたりするが・・・

珍しい。


だから、こういう世界については、私は基本的に「考えない」ことにしています。というより、それ以外の手立ては何もないのです。「考えても決してわからないものについては考えない」というのが、生を営む上での初歩的ではあるが、たぶんもっとも適切な態度だろうと思うからです。

佐伯


とても、良識がある、お方である。

何せ、霊を供養するという、仏教の開祖、仏陀でさえ、死後のことは、解らないと、答えている。


そんなことを、考えている暇に、修行をして、悟れ、ということだろうが。

兎に角、悟って、如来になれ、である。


死後の世界がある、といのも、死後世界が無いというのも、何の根拠もない、思い込み。

思い込んで、納得し、安心して、祈る人たちが多数いる。


宗教という、とんでも、商売の人たちと、その信者たちである。

宗教は、ボランティアではない。結局、この世の最悪の、金、が介入する。

どの宗教もそうである。


信じ込ませると、勝ちなのが、宗教である。

すると、勝手に、金が入る道がつく。


多くの自然科学者はこの世界を構成しているものはすべて物質であり、世界は物質の相互関係によって成り立っていると考えている。物理学者も生物学者も、究極のところは、人間もバラの花も大地もすべて、宇宙を作り出した物質の展開や進化や変形によって作り出された物質的現象だと考えるでしょう。意識や理性も脳内物質の生み出した現象だというでしょう。その意味でいえば、確かに、物質である身体が消滅すれば意識も精神もなくなり、霊的存在などありえるはずもないのでしょう。

佐伯


上記、仮定、仮説である。


そして、霊的現象を訴える人の、グループもいる。

近い例では、「魂でもいいから、そずにいて、3・11後の霊体験」という、東日本大震災の後に、多くの霊的現象、体験が報告された、その取材をした、奥野修司氏の、著作である。


それも、嘘ではない。

ただし、別の見方をすると、精神異常になる。

幻覚とか、妄想病である。


その悲しみによる、幻覚、妄想症と名付けられる。


私は、追悼慰霊を行うので、霊的存在というものを、私なりに、定義している。

つまり、思い、念、というものである。


それは、物質化するのである。


更に、この世の物質は、それを物質化させる、何らかの、働きがあると、私は、定義している。

それを、宇宙の、秩序と法則と、仮定する。


そして、それを感じ取る力を、感受性と言う。


また、別名、皮膚感覚である。


経絡というものを、西洋医学は、認めなかった。

しかし、それが証明されて、経絡が存在すると、認められた。

その程度のこと、である。


神経のみが存在するという人に、経絡があると、言っても、詮無いこと。それでは、言わぬ方が賢い。