性について311

伝統的なメキシコ文化では、明らかにセックス及びジェンダーの二分法が支持されている。マチスモを支持する価値観が社会の隅々まで浸透しているのだ。「良い女」と「悪い女」との間にはシンボリックで明確な境界線が存在するため、処女性が尊重され、その結果、男女間の性的関係は先延ばしになる傾向がある。そのため、性のはけ口のない未婚男性人口の割合は高く、それがメキシコ文化にセイム・ジェンダー関係が存在する一因となっている。

ギルバート・ハート


メキシコは、一般的にホモセクシャリティに対し否定的だが、ある一定の状況下では、許される場合もあるという。


ホモセクシャルを指す言葉は、様々なものがあり、例えば、女のような男を意味し、蔑称ではない、マリコン、男娼を意味するプートー、ホトがある。


強烈なスティグマを負わされることから、ホモセクシャルの多くは、その欲望、性関係を、家族から隠すために、どんな苦労もいとわないという。


さて、バリオにおける、メキシコ文化は、一定の条件下では、セイム・ジェンダー関係を、概ね支持している。


ある伝統的なコンテクストに置かれた人物は、アクティボ、つまり能動的、あるいは、パシボ、つまり受動的役割を取り、性的パートナーとして用意された役割、役目に従う。


年下の男、異性装者である男との関係で、アクティボ役割を引き受けたとしても、男は名誉を失うことはない。

年下の男の男としての名誉も、一定の注意を払えば、傷つけられることはない。


だが、多くのラテン系諸国と同様に、メキシコでは、肛門に挿入されることは、究極の逸脱行為になる。


冒涜的行為であり、避けるべき不名誉な行為とされる。


男・女という二元論を重視する姿勢は、下層階級のセイム・ジェンダー関係を持つ、メキシコ人の男に、異性装者の役割や習慣が存在する一因となる。


異性装者である男は、概して、下層階級の出身であり、胸、臀部、化粧、ドレスといった、女性の性的特徴を強調するように、求められるシステムの中で生きる。


彼らにとっての、ステータス・シンボルは、完璧な肉体である。

上品で美しい、異性装者のイメージを作り上げるため、懸命に働き、貯えてきたかを、完璧な体が証明するのである。


彼らは、セクシャリティと暴力のはざまにある、緊迫した状況を生き抜くため、大変な苦労を強いられる。


ある種の男性ホモセクシャル、即ちマヤテスが、パシボなホモセクシャルに魅力を感じるのは、その女性性のためである。


また、年下のマッチョな男が、金のために、性交渉をしている、あるいは、金に困り、セックスが必要だから、男同士の関係を持つのだと言い張り、自分を誤魔化すことも、多くある。


その中には、矢張り、女より、男との性交渉を好む者もいる。


マチスモの影響は、ラテンアメリカ全域に及ぶ。


内戦と大規模な社会変革を経験し、社会主義体制が樹立されたニカラグアは、メキシコと対照をなす。


革命主義者は、女性の地位向上を図り、マチモスに否定的な見解を示す。

一方、同性との性的関係を好み、受け身で女らしい男、ココネスに対し、曖昧だが、肯定的な態度を示している。


だが、異性愛者の革命主義者たちは、男たちが、皆、クイア、つまり、なよなよした男に変わってしまうのではないかと、不安を覚えるようになったという。


マッチョ役割の変化につれ、ニカラグアの男は、男女間の平等が達成されつつある現状に、不安を覚え、自分たちも、ココネスのように、軟弱に、あるいは、女のようになるのではないかと、怖れている。


ニカラグアやメキシコの事例が示すように、セクシャリティやジェンダー役割が劇的に急変しつつある状況のなかで、男性役割とホモセクシャル役割を両立させるための容易な解決策はない。

またカストロ政権下のキューバでは、同性愛者を投獄し、ホモフォビアを制度化する弾圧的政府によって、同性愛者は数々の辛酸を舐めている。またそれはエイズ感染者の処遇に不幸な影響を及ぼしている。

ギルバート・ハート


現代のジェンダー転換の例として、メキシコ南部の地峡部に居住する、サポテカ族が挙げられる。


サポテカ族では、ある種の女性のような男を、ムーシュ、また、スペイン語のエフェミナドと呼ぶ。

彼らは、時には、生後六か月という幼少期から、異質な側面を見せるという。


第三のジェンダーである、ムーシュは同年代の少年とは異なり、家庭内で女がこなす日常雑事に興味を持ち、女の集団に加わることを望む。


男子より、女子や、他のムーシュと一緒にいることを、好む。

つまり、女のように行動することを、好むのだ。


成人後は、雰囲気、動作、身のこなしは、女と全く区別がつかないという。


また、他の研究報告によると、この地域では、同性間の性的関係が、かなり一般的なものとして捉えられている。


多くのホモセクシャルが、乱暴で、あるいは、不当な扱いを受け、プートー、つまり売春婦と呼ばれ、人目を避けた生活を強いられている。が、少なくても、愛情、欲望をオープンに表現できるまでは、認められている。


この地でも、またエイズが人々を、死の恐怖に陥れ、異性装者や、ムーシュのように、アナルセックスで受動的な人にとっては、深刻な問題であり、アメリカのゲイ、レズと同じく、エイズによって、生活が一変した。


現在、メキシコ、及び、その周辺国では、ゲイ、レズビアンのコミュニティの出現が兆しがあり、その中から、より平等なインテルナシオナルと呼ばれる人たちが、登場している。


いずれにせよ、同性愛、異性装者という存在は、何処の国、地域にも存在するということである。


この、ギルバート・ハートの論文を読むことで、それらの人たちにの対する、偏見が無くなる。


また、偏見というより、少数であることが、問題なのである。

少数であることが、異常とみられ、偏見に晒される。


あるべきもの、存在するものは、当たり前という、常識を身に付けることだ。