日々の言い分434

私の霊的所作について、書く。


慰霊師を名乗っている。

つまり、慰霊をする人である。


だが、その慰霊の作法は、どうなのか、ということだ。


私は、少年時代は、カトリックの熱心な信者だった。

そして、今も、その心根は変わらない。

方法が変わったのである。


簡単に説明すると、慰霊をするとは、相手の霊位があるという、考え方である。だから、死後の世界は、無い、と断定する人には、理解出来ない。


また、私も、無い、と断定する人に、霊の存在など、何も言わない。


戦没者の追悼慰霊から、慰霊の所作が始まった。

そして、それは、その場、その場での、行為になる。


つまり、決まった形はない。

更に、決まった形を作らない。


古道神道という、私の神道作法である。

縄文期から続く、所作と言う。


そんなこと、解る訳がないと言う人が、いるかもしれない。

実は、私も、良く解らない。


だが、神社神道とは、別物である。


あちらは、それなりに、形を作った。

明治初期に、政府によって、それらは、進められた。


後の国家神道と言われる、神道である。

天皇を祭祀の頂点にして、成り立つ。


天皇は、伊勢神宮の格式と同じ、格式を持つ。

だから、普通の神社、神宮に対しての、所作が、一般人と違う。


礼拝の仕方が違うのである。


さて、私の場合は、私一人の、神道である。


教派神道でもない。

つまり、宗教ではないと、明確にしておく。


それは、伝統所作である。

だから、自然のものを主にして、依り代を作る。


依り代とは、神懸かるものである。


その場所にある、木の枝、あるいは、花も使う。

そこに、霊位をお呼びする。


神呼びの、行為である。

日本人は、死ぬと、カミになる。

それを、神という文字を使うか、否かが、それぞれの立場によって違う。


日本には、カミという文字は、多数ある。

神、守、監、督、上・・・


一神教で言う神観念とは、全く、別物である。


何せ、日本人は、自然、天地万物をカミとして、崇めた民族である。


天照も、太陽に化していると、見立てた。

勿論、太陽を神とする国、地域は多い。


バリ島に出掛けて、現地の人に確認すると、神は、太陽だという。

その、呼び名が違うだけ。


神呼びをして、霊位をお呼び出しする。

そして、祝詞を奏上するという。

私は、祝詞を献上する。


つまり、言葉、音霊を捧げるのである。

日本人の場合は、ほぼ、祝詞にて、鎮まる。あるいは、上昇する。

浄化するともいう。


また、祖霊にたいし、たてまつり、引き上げを願う。

私は、ただの、仲介者である。


更に、時には、仏典、お経を読誦したり、キリスト教の祈り、更には、イスラムの神の名を呼ぶこともある。


人を見て、法を説けとは、昔の人が言った。

それと、同じである。


相手の意の添うように、寄り添う。

何せ、慰霊である。

私の妄想の観念は、全く必要ない。


そして、それも、その場、その場の行為になる。


方法が無い、形がないとは、そういう意味である。


別エッセイで、神仏は妄想である、を書ている。

そちらを参照してください。


人間は、その存在自体も、幻想、妄想の内に在ると、私は、考えている。


あらゆるものは、仮の姿であり、本来は、無、空である。

何も、仏教のお話しではない。


それについても、別エッセイを参照のこと。


存在するものは、ただ、いのち、の流れにあるということだ。

いのち、のみが、滔々と流れている。

その、いのち、が存在の大元である。


だから、慰霊は、その、いのち、への回帰を促す行為である。


浮遊していては、回帰することが出来ない。

だから、そのお手伝いに、私が、所作をするだけである。


または、祓いと清めである。

それは、想念の祓いと清めである。


つまり、無、空に、回帰してもらうことだ。

それ以外のことは、不遜になる。