国を愛して何が悪い238

能楽を大成したのはたしかに彼に違いないが、すでに述べたように、作品は民衆の「忘れ得ぬ思い出」に深くむすびついていたし、直接的には、当時の田楽申楽の先駆者たちの芸の摂取と継承の上に成立したものである。

亀井


当然、その時代を作るものは、それ以前の時代に負う。

その中で、その一筋に秀でた者が、大成する。

何事も、そうである。


だから、簡単に言えば、芸人として、世阿弥より、優れた人がいた可能性が高い。

ただ、その人は、書き物を残さなかっただけの話である。


亀井の解説から言えば、中世から近世にかけて、様々な芸の秘伝が、「道」として比較的まとまって、現れた四つの時期がある。


最初は、鎌倉時代の、俊成、定家、長明、後鳥羽院、順徳院等の、歌論である。

そして、次が、世阿弥の、室町期の能楽論。

その後、珠光から、紹鴎、利休へと続く、茶道論。

江戸時代の、芭蕉などによる、俳諧論である。


いづれも日本芸術の純粋民族様式の確立を示したものとしては特筆にあたいするであろう。そしてこれらの先駆としては、十世紀初期の「古今集」序を挙げてもよかろう。

亀井


古今集は、905年に編纂されている。


そして、中世は、宗教の時代でもあった。


奈良朝以来、造寺造仏に参加した無数の技術者たち、工芸品の作者たち、また絵師とか面打ちとか陶工とか、広い層に渡ってすぐれた職人の存在したことは遺品によってあきらかである。芸能だけの問題ではない。

亀井


その彼らの、書き物が残っていれば、更に、日本の文化について、多くを知ることになったはずである。


そこには、原則として、非共同体での無署名の世界であったことが、原因である。


さて、もう一度、徒然草を取り上げる。


それは、室町期初期のものである。


兼好は乱世の武士とか民衆の社会的な動きには興味をもたなかったらしいが、その代わり、無名の名人達人たちの語る芸や職業の極意について、絶大の好奇心を抱いていたらしいということである。

亀井


そのようである。

兼好により、それが、解るということが、徒然草の価値だ。


つまり、世阿弥の秘伝が成立背景に、実に広い裾野があるということだ。


田楽も申楽も、最初は猥雑で低級な乞食芸であったと言われる。しかしそのくりかえしのうちに、次第に芸意識が目覚め、芸の勘所と言ったものを自覚する人々があらわれたにちがいない。観客を念頭におくかぎり、いやでも工夫し洗練しなければならないのは当然だからである。

亀井


だから、現代に、その道を歩む者は、謙虚でなければならない。

それを受けいれ、成長させたのは、歴史である。

そして、それが、日本の精神の上に、現れたものである。


一人では、成し得なかった。


保守という言葉が、政治についての思想と思う人は、私が言うところの、保守とは、違うということを前提に言う。


保守とは、伝統の別名である。

伝統とは、人が織りなしてきた、重なりであり、そこから発した、文化、芸能などのことである。


その場合、まず、日本の伝統とは、万葉集における、歌であると言う。

つまり、歌道が、日本の伝統の大元である。


それは、老若男女問わず、参加できる世界だ。

誰もが、歌道の上では、平等であるという、精神を持ったのである。


保守という時、私は、いつも、まず万葉集に帰る。