生きるに意味などない163

均一化の味気無さは、人間生活の外面にとどまらず、いつのまにか心の内面にまで忍び込む。現代の科学技術の特徴的な産物のひとつであるマス・メディアの暴力的支配の下、人間は知らず知らずのうちに、あらかじめ計画されたある一定のプログラムに従って思考するように馴らされていくのです。

筒井


これが、本当に、恐ろしい。

おそらく、70歳代の人たちは、その中の大多数である。

だから、洗脳されて、どうしょうもなくなっている。


マスコミの、左翼思想が、浸透しているのである。


画一化・・・

そんなものでは、ない。

家畜同然である。


思考の、家畜化であるから、絶望である。


そして、思考の画一化の枠がひとたび出来上がってしまえば、その枠に従ってものごとを考える人々の、思考ばかりではなく情緒や感情までも画一化されてしまうのは当然なことです。

筒井


すでに、そのようになって、久しい。

そして、それが、狙いだった、支配層の人たちがいる。


例えば、平気で、日本を中国に取りこまれてもいいと、考える人たちが出ている。

日本の歴史と、伝統に、誇りを持たない人たちである。


存在する必要のない、人たち。

と、私がこのように書くと、必ず、人権を持ち出す人がいる。

存在する必要がないと、言う言葉に、反応する。


この世に、誰一人も、存在し続けて欲しい人などないし、また、生き続ける人もいないのであるが。


反日言動は、言論の自由てあり、親日の言動は、ヘイトであると、平然としている人たちがいる。


勿論、反日、親日であろが、生きるに意味などない、のであるが。


最近、文化記号論やそれに直接間接の関係をもつ学問の分野で、「文化的普遍者」という考えが現れ始めたことは、今お話した事態との関連で、非常に興味あることだと思います。

筒井


文化的普遍者・・・

これこそ、意味意識の、最たる言葉である。

勿論、それは、西洋哲学史の中で、重要な術語である。


「類」「種」という、概念的普遍者を意味する言葉である。


ところが最近では、それを大変広い意味に拡大して使用する人が出て来たのです。例えば、テクノロジー的普遍者だとか、生態学的普遍者だとか、そのほか経済、政治、イデオロギー的普遍者など。それらを一括して「文化的普遍者」と呼びます。

筒井


明らかに、意味付けの、最たるものである。

そして、言葉が出来ると、一人歩きする。

更に、知った気になる。


つまり、生きているつもりで、生きている状態である。

思考が家畜化されて、意識としては、生きていると、信じているが、実は、騙されて生きているのである。


意味などないのに、あるかの如くに、信じている状態である。


別エッセイ、死ぬ義務、を参照のこと。


一定の事物、事態、観念、価値などが、ひとつの文化共同体に属するすべての、あるいは大多数の人々に共有されると、そこに画一化され一様化された構造が出来上がってくる。それが「文化的普遍者」です。要するに、文化のいろいろな領域において、みんなが画一的なものの見方をし、画一的に生活し、画一的に行動する、そういう共通の型ということであります。

筒井


噛み砕くように、説明している。


人間は、類、種に属していると、安心するのである。

あの、生ぬるい団体、特に宗教団体などを見ていると、まさに、その通りである。


画一的が、悪いことではない。

それによって、辛うじて、生きているからである。


何かの価値があると、思い込んで、生きているのと同じである。


それが、共通のものだと、皆、安心する。

みんなで渡れば、怖くない、という言葉の通り。


一人、独りでいるのは、実に、不安で、怖いのである。

人の集うところに、人が集う。


筒井氏の、言うことは、それを繰り返し、語ることである。

勿論、そこから、東洋思想などのお話しになるのだが・・・


人間は、繰り返して生きて来た。

歴史は、繰り返しである。


あてどのない旅を続けて、人類は、生きて来た。

勿論、一神教のように、神の内にすべてがあると、信じて生きられる人たちもいる。


その、神が無いとしたら・・・狂う。


何かを信じて、何かを妄想して、生きる人間の有様を、とくと、見つめるべきである。


すると、そこには、自ずと、何も意味がないと、知ることになる。


花は、ただ、咲いているだけである。

その存在の意味は、無い。


人間が、勝手に、意味付けをするだけである。


神の栄光が下った、故に、花は咲くと、信じる。

そして、信じる者は、騙される。