およそ伝統的諸文化がそれぞれの個性を失って無色、無差別の状態となり、個人間の相違がみな一定の平均価値の水準まで押し下げられてしまうような環境では、人間は知らず知らずのうちに自分の真の実存的中心である「自己」から切り離されてしまい、必然的に「自我」中心に生きるほかないからです。エゴが猛威をふるう世界には、セルフに基づく深層的主観性の統一態成立の余地は残されておりません。
筒井
危機意識である。
自己に基づく、深層的主観性の統一態成立の余地がのこされていない・・・とは、何か・・・
こうなると、自我から、自己を回復することが、悟り、と言われそうである。
だが、果たして、それほど人は、自己と、自我の違いを生きているだろうか。
世の中は、金儲けの話で、盛り上がっている。
まさに、エゴ丸出しである。
そして、それが、必要であるとの、印象を受ける。
老後を生きるために、二千万円必要だ・・・という、辺りは、エゴであるが、人間なら、当然、生きるために、エゴに従う他はない。
何も、大層な話を持ち出さなくても、エゴで生きるしかなくなっている。
更に、それでは、自己を生きるといって、生きられるものだろうか。
この時代性にあって、自己を生きるとは、大変なことである。
無人島で、自己を生きられる人が、どれほど、いるだろうか。
だが、
「地球社会化」には、一様化とはまったく逆の方向に、すなわち不調和、不一致、闘争、激突の方向にまっしぐらに進んでいく側面もあります。
筒井
当然である。
それぞれが、違う。
国別でも、全く違う。
姿形は、一様でも、その心情は、全く違う。
世界的に、若者たちの姿は、似たようなものになっている。
だが、その心情、情緒は違う。
更に、政治、経済、その他諸々、全く別物である。
そしてこの方向においても、「地球社会化」の過程は、人類の存在それ自体を、直接、破滅の危機に導くかもしれないような重大な事態を次々に惹起していく可能性がある。可能性があるというより、事実、この点では、いろいろな問題が概に我々の目の前で、世界的規模で起こりつつあります。様々な人間集団の経済的、政治的、宗教的、イデオロギー的摩擦、闘争が、それの具体的な現れです。
筒井
そこに、危機意識を持て、ということか・・・
あるいは、意味付けか・・・
例えば、中国共産党は、まさに、世界的に混乱を引き起こしている。その、覇権主義である。また、新侵略主義である。
ただ今は、米中戦争の、ただ中にある。
世界では、戦争なのだが、日本人は、平和だと信じている。
世界的調和などは、夢の又夢である。
妄想全開の、宗教団体が、核兵器廃絶とか、世界平和の云々と、宣伝し、信者、会員獲得を目指しているのみ。
世界が狭くなったということでの、意味付けの考え方を、どう捉えるかである。
世界は、より良くなったと、捉える人もいる。
一瞬で、世界のことが、解る。
更に、出掛けることが、出来るのである。
科学技術的に、均一化した狭い空間の枠内に、多数の国家、多数の民族が、それぞれ異なる文化伝統、世界観、生活感情、感受性を持ったまま、一緒くたに投げ込まれていると、考える見方もあるが・・・
それほど、世界が上等になったと、考える人もいる。
その多文化に、直に、触れることの出来る、時代になったと、喜ぶ。
そこに、果たして、世界を破滅させるような事態が、起こるのか・・・
勿論、一神教の国々は、他の一神教の国々と、その民族を憎悪する。そして、そこから、戦争の可能性も、限りなくある。
が、反面、経済によって、何とか、辻褄を合わせて、やり遂げることも、あり得る。
ただし、ヨーロッパに移民としてイスラム系の人々が入ると、ヨーロッパの崩壊が始まる予感がするのは、私だけではない。
だが、歴史は、民族の大移動により、変転してきた。
今が、その時代なのかもしれない。
繰り返し語れらる、危機意識だが、何の事はない、繰り返しているだけである。
そして、その時、その時に、危機意識を呼び掛ける、思想家などが、いる。
いつの時代も、いたのである。
崩壊して、初めて、また、作り上げることが出来る。
それが、何か問題なのか・・・
新しいものを築くためには、破壊が必要である。
それが、いまの時代だと、考えればよい。
すると、それほどの、危機意識は、無いのである。
更に言えば、世界の数パーセントの支配者たちによって、世界が創られている。それを思えば、何のことはない。
大多数の人は、別段、問題になることは、ない。
ただ、エゴに生きていれば、いい。
そのエゴにしても、大したことではない。
在っても、無くてもいいほどの、エゴである。
そして、そのエゴは、単なる、幻想、妄想の内に在る。
死ねば、エゴも、終わる。
哀れなものである、人間は。