死ぬ義務41

人格存在、人格的生命は、現象面に現れてくるところの自我意識や精神活動の底にある存在領域に注目して捉えられねばならないとするこの存在論的人格論も、たしかに数ある人格観の一つではある。

尊厳死思想の人格観をとるか、それともこれをとるかは、現実の問題にとって重大な相違となる。もし存在論的人格観をとると、現象面において捉えられるような自我意識を伴った精神的活動がないからといって、そこに人格がないとは決して言えないのである。

活動その他の依立存在を通じて現象面に現れ、認識されるということと、実在するということは別である。実在は現象に先立つのである。

ゆえにここでは、人格とされる存在は、現象界における活動に注目する尊厳死思想の場合より、はるかに広い範囲に及ぶということになる。

宮川俊行


いずれの、人格観を取るかとは、誰が決めることが出来るのか。

誰も出来ない。

しかし、死は現実である。


そして、それは、遅いか、早いかの、別のみである。

それを、私が観念して、受け入れるか否かである。


だが、その前に、広く社会と人々の、人格観と、死生観を問うのである。


存在論的人格観に立てば、人格とされなければならない者を、尊厳死思想は、非人格的生命、生存無意味な生命と、断じる恐れがある。


植物状態、重度の精神障害、異常新生児、重度の認知症、精神病者など、通常知覚することの出来るような、自我意識や、精神的活動は、大脳の異常によって、見られないかもしれないが、存在論的には、現象背後の実体においては、依然として、精神的存在である可能性がある。


また、それではないという、十分な根拠はない。


障害者スポーツのあるかたが、言った。

もし、障害者として、社会や表に出ることが出来なければ、スポーツをやることすら、出来なかった、と。


それを俯瞰して、広く考えると、広い意味での障害者に対する、社会的対応が、実に難しいのである。


特に、尊厳死に関しては、とんでもない、考え方に行き着く場合もある。

その例が、ナチスの、虐殺だった。


ナチスの例は、尊厳死でも、安楽死でもない。

大量虐殺である。

論外だ。


さて、尊厳死思想に戻ると、生命にとっての、存続か、消去かという、根本的、そして決定的な問題を決めるにあたっては、実に曖昧で、その考え方も狭いと言える。


それは、心理的人格という概念を採用し、その結果、客観的には精神的存在としての尊厳を持つ生命を、非人格として、存在の価値無しと切り捨てる、可能性があるからである。


尊厳死思想の中に、重大な誤りを、認める。

では、その思想を、受け入れることが出来ないのか。


宮川氏は、

自我意識も、精神的活動も、普通われわれが理解しているような形では現象面に現れていないような状態で、生存を続けている生命をも、普通の、日常いわゆる「人格」として通用している人間と、まったく等しく取り扱うことを倫理は要求するのか。われわれが倫理的に正しく行動しようと思っているとき、われわれはこのような生命を普通の人格的生命との対比においてどう扱ったらよいのか、という問いである。

と、書く。


それでは、倫理学的に、この問題を、より掘り下げてみる。


人間生命の質とは、何か。

それは、生命の価値が、絶対、最高ということではないが、生命をかけがえのない、人間的諸価値の実現をなすものとして、定義する。


トマス・アクィナスの人格観を持って、倫理学が考案した、人格観というもので、倫理学が進む。


その人格論は、人格とは理性的本性の自立存在者である、という。


存在とは、現象、活動、機能に先行し、活動や機能を失うことは、何も存在論的な前提に、精神的能力、他の人格との交流、自由な自己決定、選択、知的認識などの諸機能、諸現象の存在論的な前提に、精神的能力である理性および意志があり、この能力の基礎に実在的存在としての精神的霊魂がある。


この精神的霊魂こそが、個々の人間の実体的形相として、人間を人格たらしめている本質的存在論的原理である。


と、いうことで・・・


精神的霊魂とは、何か、である。

それは、目に見えないものである。


私は、それを、つまり、存在の価値として、認識する。

存在しているということ自体が、価値なのである。


平たく言えば、生まれたことに価値がある、ということだ。


それでは、精神的霊魂の現存を、どのようにして知ることが出来るのか、である。


精神的活動の現存から、精神的霊魂の現存を結論付けることは、当然であると、考える。


ただし、脳生理学では、精神的霊魂は、生きた大脳皮質に内的に依存していると、言う。

では、大脳皮質が破損している場合は、それが無いのか、である。


この問題は、棚上げする。


それぞれの学問には、それぞれの言い分があると言っておく。


私は、ただ、存在することに価値があると、認識する。


トマスはまた、人間は自己の理性によって、客観的存在界の基本的価値について、万人一致的かつ確実な直感的把握を行うと言い。

これは、対象ー表象ー概念化以前的な、人間存在の形而上学的構造に基礎を置いた認識であり、それを、本性適合的と呼ぶ。


呆れる程に、理屈を言うものである。


次に、続ける。