死ぬ義務43

精神的諸現象の背後にある、主体たる存在として理解しようとすることは、何も、自我意識や精神的活動のもつ意義を、軽視することではない。


存在論的人格論が、より安全だからといって、それを採用したとしても、それらの諸現象の不在、あるいは、少なくとも、我々に知覚出来ないと言う事実から言えることは、ここに人格的主体が不在であると、必ずしも、限らない。


そこに「人格」が実在していることを、直接的に知ることは出来ない。


実在しているかもしれないし、していないかもしれない。


植物状態にある生命すべてが、存在論的に人格であるという確実に保証もないのである。安全主義は必要であっても、なにもはっきりと「確かに人格である」者と、「人格であるかもしれないが、われわれの認識能力不足のため、はっきりしない」者とを同視し、まったく同じように取扱うべきだ、とすることはない。かなりの根拠をもっての推定で人格であるかどうか疑わしい生命を、まったく自明的に人格であるものと同じく人格的生命として取扱えとするのは行き過ぎであろう。

宮川


純粋確実に、人格の場合と、慎重にとの思いから、人格と見なしている場合、取扱いに違いが出て、当然である。


生命の尊厳という、原則における、生命の質、という考慮が必要である。


問題は、人格的生命と、非人格的生命とに、客観的に、二分されるはずである。


しかし、人格概念そのもののもつ問題により、また人間の認識力不足のため、二分法に基づく、尊厳死の遂行は、その生命を真に、その尊厳、価値に相応しく、取り扱うということにならないという、重大な危険性がある。


敢えて言えば、生命の価値は、等しくないといえるからだ。


ますますと、難しくなる、考察である。


これは、我が身が決定できる場合では、問題にならない。

あくまでも、他者に対する、尊厳死の概念を探る行為である。


平たく言えば、殺すか、否か、である。


殺していい、生命は、無いと判定するか・・・

殺して言い、生命は、有ると判定するか・・・

である。


言葉を変えて、尊厳死と言うだけである。

基本的に、殺していい生命は、無いと判定する。


私の判定は、尊厳死と認めて、自死を選ぶ場合のみに、それを、尊厳死と認めるということだ。


そして、自分では、その意志を示すことができない人の場合は、その家族、親族の判断による。


それは、それぞれの考え方、思想のあり方が問題になる。


私は、私の考え方を、強制するつもりは、全く無い。

考える手引きを、提供している。


介護士の相談を受けたことがある。

その患者、介護する者が、毎日、殺して欲しいと言うとのこと。


意識があり、身体機能が不全のため、介護されることが、苦痛だと言うのだ。


こんな状態で、生きていたくないという、心情である。

さて、どうすればいいのか。


殺すと、殺人罪になる。

だが、相手の気持ちを思うと・・・と、戸惑うのである。


気の毒である。

そして、介護する者も、気の毒である。


もし、安楽死法があれば・・・

本人は、死にたくても、死ねないのであるから、それを可能に出来る法律があれば・・・


そこで、議論が起きる。

だが、その議論は、空虚である。


本人を抜きにして、何事かを議論するほど、アホなことはない。


そんな人に、生きることの、価値を説くことが、出来るのか、である。


そんな状態で、生きていたくない、と言う人に、何を語るのか・・・


私の個人的な意見は、死ぬ時節と考えるならば、安楽死させるべきである、ということだ。


本来は、そのために、自分で出来る事をするのだが、自分でそれを実行できないのならば、他者に助けて貰うしかない。

だが、それを助ける、つまり、自殺を助ける行為は、自殺ほう助罪に問われる。


ここでも、法律が不備なことが解る。


昨年、平成30年、思想家の、西部邁氏が、自殺した。

そして、それを助けた二人の男が、自殺ほう助罪に問われた。


西部氏は、常々、死にたいと、口にしていたという。


更に、西部氏の場合は、死後の世界を認めなかった。

明確に、生きるも、死ぬも、無意味であるとの、結論である。


私は、それに関して、何事かを言うものではない。


人それぞれの、世界観、生死観がある。


それで、いい。


倫理学における、死生観と、死ぬ様を俯瞰しているが、倫理学のみに、任せる訳には行かない問題もある。


一つの哲学であり、すべてではない。


百人百様の価値観を、法律が、どのように、応用するかである。

そして、その前に、人間には、生きる権利があるように、死ぬ権利もあるということを、明確にしておく。


自殺が罪だというのは、一つの観念である。

必要な、自殺もあると、言うことだ。