死ぬ義務44

ある生物的生命が精神的人格原理との内的かかわりを決定的に喪失している、あるいはもともと持っていないということの断定は非常に困難であるということからいっても、中間的存在を認めることの意義は、大きい。


もちろん、人間は神ではない。ゆえに、この判定において誤りうる。しかし慎重に考慮のうえ判定するとき、われわれは命をその尊厳にふさわしく取扱っていると言えるであろう。また生命の尊厳からして、たとえ誤りうるとしても、誤ってより高い位置づけをするようであることが反対の場合よりも好ましい、と言えるであろう。

宮川


さて、倫理的に正当な、尊厳死の可能性について、考える。


つまり、倫理的に許される、尊厳死である。


この世は、様々な価値観が錯綜して、相対立、相矛盾する価値の間に立って、選択を迫られる。


生命も質に応じて、価値に応じて、尊重を要求する。

が、ある生命、ある生存の価値が、他の諸価値と矛盾することもある得る。


生命は、無条件に保持され、他の何にもまして、尊重され、他の何を犠牲にしてでも、守り抜かなければならないような、最高の価値ではないと言える。


事情によっては、死ぬこともやむをえない、のであり、生命を犠牲にしても、生存よりも、という、ギリギリの、極限状態も起こりえる。


二者択一的に、生命の放棄を容認せざるを得ない場合も、ある。


それを、どうしようもない状態と、言う。


宮川氏の、論説は、

尊厳死の選択が倫理的に正しいためには、「生存」や「生命の保持」に対して「より大きく」「より重要」とされる価値が、単に判断者の感情や我欲に曇らされた目にそう映るというのではなく、良心的で万人に通用するような普遍的妥当性をもち、客観的な基本的価値秩序に沿った判断にもとづくものであることが要求される。基本的な価値についての判断は、人間の本性適合的認識にもとづいておこなわれるかぎり、だいたい万人において一致しうるであろう。

と、言うことだ。


死を選ぶ判断は、倫理的に正当であると、見なされるものによる、との結論である。


それは、こういう理屈である。

人格の尊厳や精神的存在たる人間として、品位をあくまで保持する義務があると確信し、それを実現するためには、非人格的と思われる、生命を犠牲にする。せざるを得ないという、極限の状況に立った時である。


その判断が、客観的に見ても、より大切な価値を大切にしたことになると、良心的に考える場合である。


その尊厳死は、倫理道徳的に、許されるものとなる。


もし、尊厳死思想の誤りがあれば、安楽死行為を、一般的な形で、原則として、倫理的に正当な行為であると、提示することである。


一般的な形で、原則として、倫理的に正当な行為・・・


ここは、多くの議論を要することである。


極限状態とは、何か、である。


それを、一つ一つと見て行く必要がある。


その一つに、苦痛しかない生存の拒否である。

厭苦死である。


苦しみにもいろいろあるが、身体的苦痛が、その中でも、重大な者の一つである。


疼痛、呼吸困難、痒み、烈しく発作性のもの。持続して、じわじわと心身を消耗するもの。

ひりつくもの、うずくもの、刺すようなもの、えぐるようなもの等々。


難病独特のものもある。

例えば、筋萎縮性硬化症の末期には、唾液を飲むことさえできない。


更に、痛みには、心理反応の一つとして、主観性が強い。

更に、個人差もあり、感受性、忍耐力なども、多様である。


実際の痛みは、本人以外には、解らない。


古来の哲学では、それらを、悪と呼んできた。

身体的苦痛は、一種の、悪、である。


苦痛は、しかし絶対的悪ではない。それは、ある上位の目的のための手段として積極的役割をも果たしうるのである。少なくともその一つとして、肉体的苦痛が、生体保全のために重要な役割を果たしていることをあげることができよう。

宮川


つまり、苦痛は、現在の生命体の構造そのもののうちで、一定の役割を果たすべく、自然によって、定められ、生体維持のための、不可欠な機能を持つ。


痛みとは、病的、異常状態における、生体の正常反応である。


健康が、冒されている状態である。


このように苦痛は、たとえ特定の情況のもとに生体保全その他の目的のため積極的役割を果たしうるにせよ、あくまで悪としての本質は解消されることなく残るのであり、その限りにおいてこの世界における不合理なものとして、古来、宗教や哲学において大きな問題とされてきたものであり、その問題性は依然として現実的である。

宮川


そこに医学の、進歩と発展がある。

その役割は、苦痛の除去、緩和、病傷の治癒、健康回復など、生命の維持保全と共に、医学、医術が取り組んできた課題である。


だが、現在も、果たして、すべての苦痛が、取り切れるかと言えば、それは無いのである。

その苦痛を生きるということは、果たして、正しいことなのかと、疑問がつく。


それは、自然的な行為なのかという、疑問も起こる。

死なずに済むから、苦痛を取り除くという、単純なことではない。


いや、ここでは、苦痛を生き続ける意味があるのか、否かが、問題である。


苦痛のままに、生きることが、意義のあることなのか、と。

次に、続ける。