生きるに意味などない168

目下急速に進行中の「地球社会化」プロセスの圧力のもと、巨大なテクノロジー的機構のなかで一様化され平均化された生き方を余儀なくされている現代的人間の経験しつつある深刻な実存的危機として、自己疎外、自己喪失というものがあることを、私は先に指摘いたしました。自己喪失ーーーそれこそまさに、近代化生活の特徴をなす科学技術的「機械」の部品として、日ごとに均一化されていく生活を送ることを強いられる人間が、自分の本来的「自己」との結びつきを失って追い込まれる実存的状況そのものなのであります。

筒井俊彦


意味意識を問う、論説なのだろうが・・・

「自己」との結びつきを失って、追い込まれる、実存的状況・・・


一体、誰が、そのようになっているのか。

筒井氏が、そのようになっているとしたら、それは、それで、いい。


現代の、危機意識を煽ることなのか、どうか、読み続けて見る。


が、私は、別の危機意識を持つ。

日本人としての、危機意識である。


安全保障を、このままの状態では、あり得なくなるという、危機意識である。

アメリカ依存に、もう危機意識を持つべきだということだ。


「自己」喪失も、疎外も、いまここに、暮らしている、場、つまり、国の安全、平和の中にあるものである。


哲学者は、余計な意味意識を発見して、人を、不安と恐怖に陥らせる。


だから、また、こんなことを、書く。


人間が見失ったーーーあるいは次第に見失いつつあるーーー「自己」、そこから疎外されいる「自己」とは何なのか。この問いを抱いて東洋哲学を眺めてみると、東洋の主要な思想潮流が、まさしくこの問題ををめぐって生じ、発展してきたことに気づきます。極東であれ、中近東であれ、いつでもどこでも、真の「自己」の探求は、哲学的思考の出発点であり、基礎であり、中心課題でありました。

筒井


ご自分の、得意分野に持っていく、手はずである。


しかも、哲学思想の根源をなすこの「自己」探究が、東洋文化の伝統においては、ほとんど例外なく、純粋に主体的な探求であったということが、まず注目されます。すなわち、「自己」を理念的あるいは概念的に理解するのではなくて、そのような知的操作にかける前に、先ず哲学者たる人間が、真の「自己」を自分の実存の深みにまで主体的に追及して行き、それを自ら生きるということ。いわゆる東洋的なるもの、すなわち東洋的主体性の現成です。かつてオスカーワイルドは「古代世界の入口には「汝自身を識れ」というモットーが掲げてあったが、新しい世界では「汝自身となれ」と書かれるべきである」と申しました。これこそ東洋の哲人たちが哲学の根本問題として、数千年間、関わって来たところなのです。

筒井


数千年間、人々は、生きる意味意識を求め続けて来た、と、私は言う。

ご苦労なことです。


汝自身を知れ、から、汝自身になれ、とは、何の冗談かと思わせる。

言葉遊びの程度を、哲学とは、笑わせる。


知る、ということは、成る、ということである。

理解したということは、分かったということであり、それは、実行できるということである。


実行できなければ、知ることも、分かったことにもならないと、何故、気づかないのか、馬鹿者。


自ら、生きること・・・

今更である。


自ら、生きて来たから、人間の生成発展がある。


このような形での主体性探究が、人間の日常的自然的態度に真正面から反対するものであることは、いうまでもありません。生の日常性のレベルにおいて主役を演じる主体性は、本論の始めの部分でお話した「自我」、つまりセルフから区別された意味でのエゴであります。「自我」の働きを中心とする日常的生活世界においては、人は自分自身、および自分が主体的に関わり合ういろいろな客観的事物の存在について疑問を抱かない。つまり、自分と世界とが、現に自分の見たり考えたりしているのとは本当はまるで違ったものなのではないか、などということは思ってもみない。

筒井


自我の世界は、そういうものだと、断定する。

自我の世界観では、物事の本質は、解らないということ。


まさに、意味の深さを行く如くであるが・・・


この、自我と、自己との、問題をテーマとして、様々な、議論を造ることが出来る。


自我を、未熟で、迷いの状態にあるもの。そして、自己こそは、私が私になるために必要な、目覚めの我、である、云々。


心理学でも、自我、エゴは、悪いものとの、認識がある。

つまり、自分勝手な働きをする。


こういう自然的態度を、現象学的社会学者アルフレット・シュッツは、存在世界についての「日常的エポーケー」と呼んでおりますが、東洋哲学は、まさにこの自然的態度特有の判断中止そのものを中止するところから始まる、と言っていいかと思います。簡単に言えば、それは、自分自身の内面の深層をどこまでも追及することによって、存在の深層を底の底まで究明しようとすることでありまして、そこに東洋哲学の大きな特徴があります。

筒井


内面の深層を追求し、存在の深層を底の底まで究明するという。

そうすると、人は、狂うことになる。


狂わずにいるのは、底の底まで達しないからである。


達して、悟ったと思う人は、まことに、お目出たい人である。

仏教には、そんな人が、ぞろぞろといる。


更には、宇宙と一体となったとかいう、人。

それで、何かを得たのかと言えば、日常茶飯事に負われ、金儲けに忙しい。


誠に、生きるに意味などない、のであり、ご苦労の極みを行く。


勿論、死ぬまでの、暇つぶしには、持ってこいなので、続けて、筒井氏の、論説を読み続ける。

東洋の広さを知る、良い機会である。