生きるに意味などない169

このような意味で主体性を極限まで探究するために、東洋哲学の主要な学派は、それぞれ独自の組織的な方法を案出しました。中国的表現で言えば、「道」であります。

ひと口に「道」といっても、具体的には、勿論、名称も形態も様々です。例えば、インド思想のほとんどすべての学派に共通なヨーガ、大乗仏教の止観、禅仏教の坐禅、老荘の坐忘、宋代儒教の静座、イスラームの唱名、ジクル、ユダヤ教の文字・数字観想など、主なものだけちょっと挙げてもいろいろですが、いずれも意識の形而上的次元における特異な認識能力を活性化するための体系的方法であることには違いありません。

筒井


それは、勝手な推測である。

皆、似ているようだが、違う。

求める、境地が違うと言う。


いや、境地が同じだから、意識の形而上的次元における、特異な認識能力を活性化するための、体系的方法である・・・

やらぬ者、行為しない者の、戯言に成る。


求めているものが、違うのである。


坐禅、坐忘、静座・・・

全く、求めているものが、違う。


勿論、我を見つめる方法と言えば、それはそれで、納得するが、答えは違う。


これらの方法は、いずれも人間の日常的機能の表面だけに限定せずに、「日常的エポケー」をエポケーし、意識の深層領域にひそむ特異な認識能力を解放し、そこに「自己」の真相を探ろうとするところに特徴があります。ですから、こういう形の実践道としての「自己」探究は、第一義的には、人間実存の根源的変貌、表層的「自我」から深層的「自己」への転換、もっとくだいて言えば、人間を根底からつくりかえることを目的とするものであって、この方面から見ても、自己疎外という現代的人間の危機的状況に対して、少なからず積極的関与性をもち得るものであることは勿論ですが、それのもつ意義を正確に測るためには、それの実体験知から出てくる理論的な帰結も考慮に入れる必要があると思います。

筒井


学者は、次元の別を本当に、知らない。


次元の別を見ると、それらの違いは、一目瞭然である。


これは、絵に描いた餅になる。


自己疎外という、現代的人間の危機的状況に対して・・・

と、言うが・・・


そんなことは、危機的状況ではない。

次元の別を知らないことが、危機的状況である。


つまり、霊的次元を知らずに、自己疎外など、論ずることは、出来ないのである。

一体、どこが、自己疎外なのか・・・


もし、現代的人間の危機的状況と言うならば、何が、危機なのか、である。

自己疎外の前に、自己など、知らない。


自我で生きていて、何が悪いのか、である。


自己という、悟りの云々と言う方が、易い。


自我とは、別の我である、自己という言い方か・・・


要するに、私の見つめ方である。

私を、どのように見つめるのか、という、問題である。


それを、東洋思想には、と、混ぜるのである。


勿論、研究するには、反対しないが・・・

こうして、論ずると、矢張り、誤るのである。


つまり、意味付けの行為なのだ。


この点をごく簡単に申しますと、今言いましたような人間の内面的つくりかえの操作を通じて、人間意識の深層領域の構造が次第に明るみに引き出され、それに基づいて、唯識哲学の八識構造モデルに典型的な形でみられますように、意識を幾つもの層から成る多層構造体として立体的にモデル化することが可能になるということが、先ず明らかになってまいります。

筒井


唯識哲学とは、大乗仏教の一つである、唯識派のことである。

この、唯識を説明すると、またまた、時間がかかる。


いずれ、別エッセイ、神仏は妄想である、で書くつもりだ。


意識を、幾つもの層からなる、多層構造体として・・・

意識を、幾つもの、とは、精神病になる。


神経症でも、私の中に、何人もの人がいると、悩む人もいる。


そして意識が、表層だけではなく深層をもつ構造としてモデル化されるとともに、それに伴って存在世界、いわゆるリアリティなるものも、表層から深層に段階的につながる一つの多層構造として把握される。そこに「自己」探究の「道」の形而上学的、あるいは存在論的意義があると考えられます。

筒井


平たく言えば、精神の働きは、多層構造であり、一面的ではないということ。

だが、精神ではなく、心となると、また、別である。


あるいは、精神の働きの奥に、心の存在があるという、言い方も出来る。


自己探求の道が、大切であり、必要であることは、理解する。

その、自己の、行き着く先が問題である。


皆、それで迷ってしまった。あるいは、信じ込んで、迷ってしまった。


宗教によると、その先の、自己とは、神、仏の意識となる。

哲学では、更に、深めることになる。

そして、行き着く先が、見えない。


それでは、観想体験によって意識の深層が拓かれ、常識の見方からすると異常としか思えないような認識能力が働き出した場合、リアリティはどんなふうに変わって見えてくるのか、それをここでちょっと考察してみたいと思います。勿論、細部は一切省略した、ごく大ざっぱな一般的考察にしか過ぎませんが。

筒井


このように、説明されると、知ったと錯覚してしまう。

常識からすると、異常としか思えない、認識能力が出た場合の、リアリティが云々とあるが、異常であろう。

常識を超えるから、観想体験の、意識の深層なのである。


意識の深層に入ると、そこは、常識では考えられない世界に入る。

それを、何と言うのかは、知らないが・・・


おそらく、悟りとか、イッた状態。

恍惚とした、脱魂状態とか・・・


そういう、宗教の聖者が多い。


実に、呆れる、問題である。

体が、宙に浮くという人もいる。


例えば、インドのヨーガ行者なとが、体験する。

それを、魔界関与という。


この方は、日本の精神探究について、言わないが、もし、日本の場合だと、異常事態はない。

ただ、言葉による、昇華がある。


伝統の歌道、和歌の世界を見れば、いいのである。