生きるに意味などない170

生きる意味意識を求めている、人間の有様を見ている。


その、意味意識とは、ラテン語では、ボルンタスであり、それが、ボランティアという言葉になった。

ボランティアとは、奉仕する、支援する等々の意味がある。


ボランティア行為には、生きる意味意識という意義があると言われると、分かったような、つもりになる。


その、利他的行為も、本当は、利己的行為なのであるという、学問がある。

倫理進化学である。


別エッセイ、神仏は妄想である、にて紹介している。


さて、前回の続きである。


13世紀、スペインの著名なユダヤ哲学者にアブラーハーム・アブーラアーフィーアという人がおりますが、この人が申しますのに、我々の日常的意識の目に映った経験世界の事物はすべて「粗大な」事物であり、それらの事物に対応する我々の心内のイメージも「粗大」イメージである。

(仏教哲学にも、同じような原理に基づく存在の「粗大な」形姿との区別があることは、つとに承知の通りです。)

そして、これらの「粗大な」事物が固い「結びこぶ」となって我々の心の自由な流動を妨げている。この次元の意識にとって、現実はまるで至るところにゴツゴツ結び目のできた一枚の布のようなものだ、とアブーラアーフィーアは申します。

筒井


この次元では、この次元のままで、いいとは、考えないようである。

気の毒としか思えない、意識振りである。


だから、何だと、誰も言わない、哲学の世界である。


インドのヴェーダーンタの哲学のシャンカラなどに言わせれば、マーヤーの幻術的働きによる存在世界の幻影的出現である、ということになりましょうが、人間の表層意識は、そこに見えているものの姿を決して幻影だとは考えません。つまり、「結び目」を本当に実在する実体だと思っている。

筒井


そんなことを言えば、何もかもが、幻影である。


何一つも、確実なものは、無い。


人間の表層意識・・・

そして、深層意識になるのか・・・


その深層意識に目覚めることが、救いとか・・・


幻影の織りなす垂れ幕の彼方に事の真相を見通すことができるようになるためには、存在と意識の「結び目をほどいていく」ことが必要です。「結び目をほどく」というのはアブーラアーフィーアの特徴的な表現ですが、これが一般的にいって「観想」に当たる修行道でることは明らかです。つまり、観想の「道」によって、「粗大な」事物の「粗大な」形象を一つずつ消していく、それが意識と存在の「結び目をほどく」ことなのであります。

筒井


上記のように書かれると、それだけで、納得し、観念してしまう人、多数である。

特に、西洋人には、打ってつけであろう。


観想という修行とは、何か、である。

あるいは、黙想でもいい。


粗大な事物の、粗大な形象を、一つずつ消していく・・・

それが、意識と存在の、結び目をほどく、こと・・・


実に、それを言う事態が、迷いであると、私は言う。


そうすると、治らぬ病でも、治すとでも、言うのだろうか。

糞の役にも立たないものとして、こういう理論が、存在する。


意味意識という、とてつもない、大バカな哲学、思想である。


インドでは、云々とは、呆れる。

インドでは、意味の無いものに、意味を付けるという、遊びが一時期、流行ったのである。


仏陀が生まれた年当たりから、西暦1000年ほどに渡り。

様々な、理屈が出尽くした感がある。


死ぬまでの暇潰しに、インド哲学でもやるか、といったものである。


その中でも、日本では、仏教哲学、特に、大乗仏教の哲学を好む。

そこに入り込むと、何やら、分かったような気になるから、いい。


私は、全然、解らない。

迷いのただ中にいるような、気分になる。


中国思想にも、観想を勧める、哲学がある。

老荘思想なとが、良い例である。


道の思想と呼ばれる、老荘思想である。


また、それを語らせると、終わらないので、引き続き、続ける。


「結び目をほどく」この操作を通じて、意識の深層がだんだん深みに向かって拓かれていく。それに伴って、今まで「粗大な」事物であったものが、次第に「微細な」形象となって現れてきます。そして、このプロセスがあるところまで進んだ時、東洋哲学的意識構造モデルで決定的に重要な一段階をなす深層意識の特異なレベルが現成する。東洋哲学といってもいろいろな伝統がありますので、詳しく見れば、意識のこのレベルの立て方自体も様々ですが、ここでは便宜上、古代中国の思想家、荘子が「混沌」と呼んだものでそれを代表させておきましょう。

筒井


単なる、妄想とは、考えないところが、また、いい。


混沌としたもの・・・

そのように捉えると、そのこと自体が、幻想、妄想の類であるとは、言わないのである。


それでは、妄想症の人が、一番、よく人生を見つめていると、言えば、いいのである。実に、混沌としている。


現在の学問の世界、特に、考古学では、日本の縄文期が、世界で一番古い、時代となった。

その日本では、どんな哲学が生まれたのか・・・

誰も解らない。


書かれた物が無いからである。

書かれた物があるということは、書かれなかった物もあるということだ。


日本の伝統では、言挙げせず、という精神がある。

矢張り、語らないのだ。


語ると、誤るのである。

更に、語る過ぎると、大バカになるのである。