国を愛して何が悪い245

武家たちは、罪について無関心だったわけではない。・・・たとえば足利尊氏の「気の弱さ」は、根本的に罪悪感に発したものではなかったろうか。絶えず自己否定に見舞われ、出家と自害と政権欲のあいだを動揺していたのである。

亀井勝一郎


足利尊氏は、殺した敵味方の将兵を、およそ10万人と見積もっていた様子である。

禅の他に、観世菩薩と地蔵菩薩を信仰していた。

地蔵菩薩十万体を造り、等持院に奉納したことから、推定されている。


更に、全国に、58カ所二島ごとに、寺と塔を建立し、安国寺、利生塔と称した。


これも、元弘の乱以来の、敵味方の将兵の死を弔うためだった。


後醍醐天皇崩御の後は、天龍寺を創建したのは、天皇への、懺悔の心があったからだと、伝えられている。


そこで、それらの最高責任者は、夢想疎石である。

その禅僧は、内乱の犠牲者たちの菩提を、弔ったことは、文献にある。


しかし鎌倉の宗教改革の精神を念頭におくならば、造寺とその経営はある程度で抑制すべきであった。罪悪感とその贖いの表現が、権力者の場合、造型と写経という莫大な費用を要するものに集中されてくるのは、古代以来の「伝統」とも言えるが・・・この第二義的なものを、真っ向から否定する室町禅僧はひとりもいなかったのである。

亀井


前回も書いたが、時代性である。


造寺造型へのこうした意欲が、甚だしく逸脱してくるのは足利義満の時代である。


義満の至徳三年、1386年の改定による、五山の序列は、南禅寺を別格として、以下、

鎌倉の、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄明寺。

京都の、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。


この中で、相国寺は、義満の後からの創建である。


彼は、これを五山の中に、入れたかったという。

その結果、南禅寺を「五山の上」とし、入れ替わりに、相国寺を「五山の第二」に位置せしめたと言われる。


義満は、29歳の時、義堂の教導によって、禅にも心を傾けた。

だが、翌々年に義堂が没すると、義満の傲慢と独裁振りは、いよいよ激しくなったと言う。


とくに南北朝内乱時代から以後の彼らの信仰は信用出来ない。

亀井


当然である。その頃の武家たちは、信仰など。全く意に介さないのである。


当時の禅僧は、外来文化、宋、元、明の享受における、知的な存在だった。

武家の興味は、信仰より、そちらの方だろうと思える。


足利幕府が京都に根を下ろし、武家の公家化、臨済禅の貴族化をもたらした。


武家が京都に政権を置くほど危険なことはないのだ。外来文化と、あわせて王朝文化のはさみうちをくらうからである。

亀井


確かに、王朝の遺風は、政治的に衰退しても、魔力のようなものがある。

武士を内的に、征服する。

それは、平家を見れば、一目瞭然である。


太平記でも、繰り返し語るが、武家たちの、乱暴狼藉が極まった時代である。


その典型は、近江の守護として勢力を振るった佐々木道誉である。

それらを、バサラ、婆佐羅と言う。


バサラ大名として、名をはせた。

それは、服装に凝り、贅沢と遊興の限りを尽くした、武家集団である。


山海の珍味を並べ、高価な唐物、陶器、金銭など賭け茶会を催し、連歌師、田楽、申楽、傾城、白拍子などに、大盤振る舞いをする。


公家に替わって、その驕慢、豪奢振りは、太平記の作者の非難の的である。


さて、応永四年、1397年、義満の山荘「北山」が完成する。

現在の、金閣寺である。


亀井によると、信仰と、バサラの二重性格を持つという。


一層は、王朝風の寝殿造りで、その西側に釣殿を模した建築を付随されている。第二層は、同じ様式だが、観音像を安置して、観音院とし、第三層は、阿弥陀三尊と、二十五菩薩を安置して、舎利殿とした。


宋風の禅寺の様式である。


外来文化と、和風の混合である。

当時は、異様な建物と思われる。


更に、信仰と、遊興の場となる。

実に、矛盾する建物である。


亀井の評価は、実に厳しい。


しかし根本はおそらく次のような点にある。乱世に政権を維持しようという武家が、何ものかを信ぜずにはいられい気持ちはわかるが、同時に、或いはそれと表裏して、徹底的に遊びたかったということだ。下品だが独特の活力にあふれた「バサラ」の魅力には抗しきれなかったにちがいない。それと信仰への気兼ねとが、不均衡のままあわられているのが金閣寺というものではなかろうか。換言すれば、信仰と快楽と、双方に虚栄心を発揮しようとした独裁者らしい驕り、或いは稚気の「形」と言ってもいいのだ。

亀井


その、義満時代の文化を、現在、日本の伝統文化と言って、称賛する日本人である。


伝統とは、何かとは、問わない。


伝統とは、万葉集から始まる、歌道、かどう、和歌のことである。

要するに、言葉から始まるのである。


それが、日本の和歌である。

その和歌の世界が、現在も延々と続き、その和歌を手本として、日本の文化が営まれてきたのである。


すべての、手本は、和歌から始まる。

そして、その世界を、幽玄と名付けた。

幽玄とは、幽、カミの世界であり、玄とは、大元、すべての初めのことである。