もののあわれについて980

女君もあやしかりし夜のことなど、思ひいで給ふ折々なきにしもあらねば、まめやかにあはれなる御心ばへの、人に似ずものし給ふを見るにつけても、さてあらましを、とばかりは、思ひやし給ふらむ。いはけなき程にしおはせねば、うらめしき人の御ありさまを思ひくらぶるには、何ごともいとどこよなく思ひ知られ給ふにや、常にへだて多かるもいとほしく、「物思ひ知らぬさまに思ひ給ふらむ」など思ひ給ひて、今日はみすのうちに入れ奉り給ひて、ものすだれに几帳そへて、われは少しひき入りて対面し給へり。





女君も、あの妙な一夜のことなどを、思い出しになることがないではないので、真面目で親切なお心配りが、他の誰とも違っていられるのを見るにつけても、この人と、一緒になれば良かったと、思うこともあるのではないか。

幼い年でもないから、薄情な方の、ご様子と比べると、何もかも、一層、この上なく、はっきりとお分かりになるせいか、いつも、隔ての多いのも気の毒で、訳の分からない者と思いだろうと考えて、今日は、御簾の中に、お入れ申し上げて、母屋の簾に几帳を添えて、自分は少し引きこもり、お会いになった。





薫「わざと召しと侍らざりしかど、例ならず許させ給へりしよろこびに、すなはちも参らまほしく侍りしを、宮わたらせ給ふ、と承りしかば、折あしくやは、とて今日になし侍りにける。さるは、年ごろの心のしるしもやうやうあらはれ侍るにや、へだて少し薄らぎ侍りにける御簾のうちよ。めづらしく侍るわざかな」と宣ふに、なほいとはづかしく、言ひいでむ言葉もなきここちすれど、中の宮「一日うれしく聞きはべし心のうちを、例の、ただむすぼほれながら過ぐし侍りなば、思ひ知るかたはしをだにいかでかは、と、くとをしさに」と、いとつつましげに宣ふが、いたくしぞきて、たえだえほのかに聞こゆれば、心もとなくて、薫「いと遠くも侍るかな。まめやかに聞こえさせ承らまほしき世の御物語も侍るものを」と宣へば、げに、と思して、少しみじろぎ寄り給ふけはひを聞き給ふにも、ふと胸うちつぶれど、さりげなくいとどしづめたるさまして、宮の御心ばへ、思はず浅うおはしけり、とおぼしく、かつは言ひもうとめ、またなぐさめも、方々にしづしづと聞こえ給ひつつおはす。





薫は、わざわざお呼びということではありませんが、いつにもなく、お許し下さいましたお礼に、早速、参上いたしたくございました。宮様が、お出でになると伺ったので、折が悪いのではないかと、思い、今日にいたしました。それにしても、これは、私の長年の心の誠意が、次第にお認めいただけたのでしょうか。隔てが少し、薄くなりました御簾の中です。珍しいことです。と、おっしゃるので、矢張り、とても恥ずかしく、言い出す言葉も無い気持ちがする。

中の宮は、先日、嬉しい事を賜りました時の事の気持ちを、いつものように、口に出さずに、過ごしましたなら、お礼の心の片隅だけでも、知っていただけないかと、それが残念さに、と、誠に、遠慮深くおっしゃる。奥の方で、切れ切れに、かすかに聞こえるので、気が気ではなく、薫は、酷く、遠くでございます。心から申し上げたい、また、お聞きしたい、さしあたってのお話しもあります。と、おっしやるので、いかにもと思いになり、少しにじっり寄っる気配を聞くにつけても、ふっと胸が潰れそうになるのだが、それは見せず、いよいよ落ち着いた様子で、宮様の、お気持ちが、意外に浅くあったという思いのようで、一方では宮様を悪く言い、また一方では、中の宮を、慰めもして、あれこれと、落ち着いて、申し上げる。





女君は、人の御うらめしさなどは、うちいで語らひ聞こえ給ふべきことにもあらねば、ただ、世やは憂き、などやうに思はせて言ずくなに紛らはしつつ、山里にあからさまに渡し給へ、と思しく、いとねんごろに思ひて宣ふ。薫「それはしも、心一つにまかせては、え仕うまつるまじきことにはべるなり。なほ宮に、ただ心うつくしく聞こえさせ給ひて、かの御けしきに従ひてなむよく侍るべき。さらには、少しもたがひめありて、心かろくもなど思は物せむに、いとあさましく侍りなむ。さだにあるまじくは、道のほども御送り迎へも、おりたちて仕うまつらむに、なにのはばかりは侍らむ。うしろやすく人に似ぬ心の程は、宮も皆知らせ給へり」などは言ひながら、をりをりは、過ぎにし方の悔しさを忘るる折なく、ものにもがなや、と、取り返さまほしき、と、ほのめかしつつ、やうやう暗くなり行くまでおはするに、いとうるさく覚えて、中の宮「さらば、ここちも悩ましくのみ侍るを、またよろしく思ひ給へられむ程に、なにごとも」とて入り給ひぬるけしきなるが、いとくちをしければ、薫「さても、いつばかり思し立つべきにか。いとしげくはべし道の草も、少しうち払はせ侍らむかし」と、心とりに聞こえ給へば、しばし入りさして、中の宮「この月は

過ぎぬめれば、ついたちの程にも、とこそは思ひ侍れ。ただいと忍びてこそよからめ。なにか、世のゆるしなどことごとしく」と宣ふ声の、いみじくろうたげなるかな、と常よりもむかし思ひ出でらるるに、えつつみあへで、寄りい給へる柱のもとの、すだれのしたより、やをらおよびて、御袖をとらへつ。





女君、中の宮は、ご主人の薄情なことなどは、口に出して、お話しになってよいことではないと、ただ、自分が悪いのだという様子に思わせて、言葉少なに、言い紛らわして、山里にちよっと、お連れ下さいと思うので、心からの願いとしておっしゃる。

薫は、それだけは、私一存では、お供できそうにないことです。やはり、宮様に、ひたすら素直に申し上げてください。ああちらのご様子に従うのがよいでしょう。そうでないと、少しの行違いがあり、軽々しくもと思いになると、大変に、いけないことです。そういう心配さえなければ、道中の、御送り迎えも、私自身が指示して、お仕えしても、何の遠慮のないでしょう。心配のいらない、誰とも違う私の心のことは、宮様も、皆ご存じでいます。などと言いつつ、時々は、過ぎ去ったことの悔しさを忘れることがなく、何とかしたい、昔に戻りたいと、ほのめかしつつ、だんだん暗くなって行くまで、いらっしゃるので、煩く感じて、中の宮は、それでは、気持ちも、優れなくなるばかりです。改めて、気分のよろしい時に、何事も。と、お入りになる様子だが、本当に残念なので、薫は、それにしても、いつ頃、お出でになるつもりですか。酷く繁っておりました道中の草も、少しは、取り払わせましょう。と、ご機嫌を取ると、しばらく入るのを止めて、今月は過ぎてしまうようですから、来月早々にでも、と思っております。こっそりと人目のつかない方が、いいでしょう。何も、主人の許しなどは、大げさです。と、おっしゃる声が、とても可愛らしいと、いつもより、昔が思い出されて、我慢できず、寄りかかって坐っていらした、柱の傍の簾の下から、そっと手を伸ばして、お袖をつかんだ。


薫は、結局、中の宮を、匂宮に、譲ったことを、後悔している。

次の段では、中の宮を口説く、薫である。