神仏は妄想である573

善導の浄土教大成のあらましについて、書く。


善導は、613年から、681年の人である。

日本では、推古天皇の時代に当たる。


その善導の、浄土教がいかなるものであるかを、善導の著作から、見ることにする。


その一つに、観経疏の巻一の劈頭に、

まず勧む。大衆よ。発願し、三宝に帰せよ。

である。


僧も俗も、現代の大衆諸君よ。おのおの人生の理想、つまり、仏の悟りに、進む決意を誓願せよ、との語り掛けである。


今、末法時代に入っている時こそ、釈迦がわれらに教示された阿弥陀仏の本願による、浄土教が、唯一の救いであり、最高の全人類共済共生の道である。


と、すでに、仏陀滅後、千年以上を過ぎて、全く、仏陀が言わなかったことを、言うことになった。


信仰が、迷いであると、私は言う。

まさに、迷いのただ中にいて、唯一と声を上げる、有様は、勘違いも、甚だしいものである。


宗教とは、このように、人間を迷いのただ中に、陥れる。


我等愚痴の身もて

大昔よりこの方、迷い続け

今や釈迦仏の

末法の世のみ教えに逢えり

弥陀の本願の願にして極楽の要門たる

定と散との二善を等しく回向して

速やかに永遠の身を悟らん


現代語は、私


上記の、狂いは、いかばかりか、知れない。

仏陀は、末法のことも、弥陀という、得体のしれない存在など、一切、口にしていない。


また、浄土という、死後の世界にも、一切、触れていない。

と、言うより、死後の世界については、語ることがなかった。


この大乗の教えは、実に、罪深いものである。


人間は、勝手に、赴くままに、思索して、人々を迷わせ、信仰という道に、手引きする。


弥陀仏の、本願力を、大慈悲心と読んで、あたかも、それが存在するように、手引きする。


勿論、迷っているのは、それを唱えた、当の本人である。


我が身を、穢い身と、捉える考え方は、まさに、自虐である。

私は、罪人とは、あらゆる宗教の基本だ。


私を、罪人であるとし、その救いを、神や仏に見出すという、狂いは、如何ともし難いのである。


阿弥陀仏は、一切衆生への大慈悲心から、衆生のために、清浄心の上に構えられた、彼の清き国から、来たれと迎えられる。

との、ことである。


そして、その根拠を、浄土三部経から引いている。


その、経典とは、何か・・・

単なる、妄想の経典である。


つまり、インド南部で起こった、龍樹等による、妄想の教えである。


それが、中国大陸まで、広がった。


そして、それが、遂に、日本へと渡る。

その、日本宗教改革が、鎌倉時代に行われた。

随分と、時間を経たものである。


末法思想は、平安期から、日本に取り入れられた。

そして、人々は、絶望の時代だと、確信するという、仰天である。