神仏は妄想である575

善導もこのような罪悪凡人が清浄国土に摂取されるというような仏の密意は、凡人には、また常識的知性ではわからぬであろうという。「阿弥陀経」にも、この法は「難信之法」だと説いている。しかし宗教は科学や哲学のように、まず理解してそれから信ずるものとはかぎらない。否、信ずることとわかることが同時であるものである。信深きにしたがってわかることも深くなるのが宗教であることを、失念してはならぬであろう。

研究家


上記の書き込み・・・

呆れる。


科学、哲学が解るとは、どういうことか・・・

それは、単に、その今のことが、解ったということだ。

本当は、何も、解らないのである。


更に、宗教となれば、信じて、分かることと言うが、それが、幻想、妄想なのである。


常識的知性なくして、何事も、理解できない。

超越というものの見方があると、思っている様子である。


そんなことが、あり得るはずがない。

それなら、霊的な世界の云々の方が、聞きやすい。


ありもしない、世界の様子を信じるとは、あまりにも、馬鹿げている。


信ずることと、解ることが同時なのが、宗教であるとは、呆れる程に、呑気である。

これが、人間を迷いの、ただ中に置いた。


それでは、私も、妄想逞しく、語る。


宗教、信仰を持った人たちが、どんな世界に行くのか・・・

大半が、その宗教施設の、上空である。

そして、何と、そこが、天国、浄土だと、信じている。


つまり、霊的存在が、浮遊しているのである。


その宗教施設、建物の、上空にいて、浮遊しているから、宗教施設、その建物に入る、あるいは、見学すると、具合が悪くなる人がいる。


当然である。

浮遊霊の波動を受けて、具合が悪くなる。


そこから離れると、元に戻る。


それが、現実である。

勿論、霊的波動の強い人は、見学しても、何にも無い。

楽しく、建物を見学できる。


さて、善導の浄土教に対する、お説を、また紹介する。


なぜに仏光は普く、唯念仏する者を照らすのか、との疑問を提起して、親縁、近縁、増上縁の、三縁を説いて、念仏が他の諸行と比較にならないと、念仏専一の行を勧める。


日本では、専修念仏となる。


また話は、逸れるが、それで、中国の念仏者たちは、どうなったのか・・・

今では、そんな者は、皆無の中国である。


念仏で、救われたのか・・・

現在の、中国共産党の一党独裁体制の、あの国を見れば、到底、救われたとは、言えぬ。


まして、現在は、仏教が廃れて、無いにも、等しい。

これが、証拠である。


そんなことでの、救いなど、無いのである。


親縁とは、信仰者が実践行を起こすのに、口常に仏を称すれば、仏すなわちこれを聞きたもう。身常に仏を礼敬すれば、仏すなわちこれを見たもう。心常に仏を礼敬すれば、仏これを知りたもう。

衆生仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念して、仏と我との彼此の口、見、心の三、つまり全行動が一致して離れないのである。


近縁とは、信者が仏にまみえたいと願うと、仏がすなわち念願に応じて目前に現在す。仏と手をとりあった生活を喜べる。


ちなみに、仏陀は、そんなことは、一切、語ることがなったのだが・・・


増上縁とは、衆生称念すれば、自らの過去の罪が除かれて心が浄化され、命終のときにも聖衆の迎接を受け、邪悪に妨げられることはない。つまり、つねに称念を実践することは、自らの生活を浄化するとともに、「衆生のための仏」によってつねに誘導罪過から守られ、かつ励まされて、仏力の冥加の中に信仰生活に生涯を通じて、くじけることなき力を増進してゆける、と言う。


勝手な解釈、勝手な意味付けである。


阿弥陀仏と、仏と、更に、多くの諸仏が登場するという、状態である。


それは、十方浄土の諸仏のいずれでの、仏でもよいとなる。


念仏三昧は、十方一切諸仏を見るがゆえに、念仏三昧と名づく、と言う。


あまりの、無知蒙昧に、愕然とする。


末法思想という中での、新しい仏法が誕生したのか・・・

それにしても、救い難いのである。


日本には、念仏の他に、題目を上げるというものもある。

題目とは、その仏典の、妙法蓮華経に、帰依するという、意味である。


原始キリスト教、あるいは、景教に影響を受けて、作られ、書かれた、経典に帰依すると言うのであるから、呆れるのを通り越して、愕然とする。


そして、それを、仏法と言うのであるから、錯乱しているとしか、言いようがない。


念仏も、題目も、仏陀は、そんなことは、一言も言わなかった。

いや、仏陀在世当時、全く、そんな説教は、無かったのである。


仏陀滅後、千年を経て、とんでもない、お化けになってしまった、仏教というもの。

更に、バラモン、ヒンドゥーの教えまで取り入れて、とんでもない、仏教となった、密教もある。


密教は、仏教ではない。密教である。

それを、一緒くたにした、密教の行者は、甚だしい勘違いをしたものだ。

日本では、空海である。