神仏は妄想である576

さて、以前、新しい仏教運動を起こした、信行について書いたが、善導も、その教えの影響を受けている。


官権からも、仏教界からも、幾たびも弾圧を受けて、地下に潜行したが、また地上に出て、隆起するという。


それは、いつでも、宗教として生き、力を持ったのは、インドの仏弟子や、聖者、世親らの、遠い過去の聖者の仏教を求めても、駄目であるという、考えである。


つまり、現在は、末法の世こであるからと、時代と人に相応するために、現代と、その中で生きる一切の人の共通性を見極めて、末法における、罪悪愚痴の凡人であることを、深く反省すること。


普敬、普行、普の実践仏教のみが、現代に生きる仏教であるとの、宣言があり、その後は、道綽、善導により、同じく、今に生きる凡夫の宗という、同じ立場を取りつつ、さればこそ、「普」では、効を上げられない。未来の衆生の救済を本願とされた、西方一仏を信じて、ただ、専修念仏一行に、帰入することのみが、現代人類を救い、共に生かすのであるとの、宣言である。


釈迦、弥陀二尊の慈悲心によって、開かれている宗教だと、普敬普行から、専修一行に、転向したのであるとの、こと。


仏は一切仏なり、一切仏は、一仏なり

善導、散善義


すでに中国初期の仏教、浄土教に言われたことが、日本で、また言われることになった。


法然が、親鸞が言った・・・

その前に、中国浄土教が、発していたという。


仏陀は、イダキ夫人の、浄土を見せしめ給え、との切なる願いに、日想観、水想観と順を立てて、一三の定心による、浄土観察行として示されたという。


そして、その個人の願いに応じた一三の定善ののちに、仏陀が進んで、九品の人の往生浄土の行相を説かれたという。


そんなことは、説いていないが・・・

話を続ける。


九品の人とは、未来世の善悪あらゆる衆生、聖者に非ず、凡夫であることで共通している一切の人々である。


その、凡夫の実践する往生浄土の行相こそ、仏の苦しめる者に注ぐ、大慈悲心から、請われるに進んで、説いたと言われる。


散乱の心でしか、修行出来ない、末法社会に生活する凡夫の、宗教実践であるとした、と言う。


創作の仏典により、更に、想像逞しく、妄想した、浄土教の面々である。


何度も言うが、救い、救う、という、蒙昧は、計り知れないものである。


浄土三部経という、創作の経典である。

呆れる程に、愚昧、極まる。


そして、そこに、見事に、嵌ったのが、信徒であり、始祖たちである。

浄土教は、日本の、平安期、そして、特に、鎌倉時代に開花した。


末法の世と言われた、その時代から、現在は、千年以上を経る。

今も、末法なのかと問われれば、末法と答えるだろう。


そして、その通り、末法になり、僧侶は、俗人より、俗になったというお話しである。


その妄想が、実に、面白いので、もう少し、書き続ける。


仏道を成就するには、安心、起行、作業の三に立脚して、修道するへきだと言う。


善導もまた、観無量寿経疏で、経文の至誠心、深心、回向発願心の、三心こそ、浄土信仰者の安心であり、実践の根底であるとし、三心すでに具われば、行として成らざるなし、と説いた。


至誠心とは、浄土の行者は、身、口、意の実践を必ず真実心中に為せ。内に虚偽を抱いてはならない。


深心とは、深く信ずる心であり、二種の深信があると言う。


その二種は、第一に、深く信ずる。自身は現にこれ、罪悪生死の凡夫にして、曠劫より以来、常に没し常に流転して出離の縁あることなし。


上記は、つまり、永遠に迷いの世界に流転し、悟りに進む縁がないものと言う。つまり、絶望である。


絶望に突き落として、信仰させるのが、得意の宗教の手である。


在家の人は、五欲を貪り求めること、相続して常なり。たとい浄心を発すとも、たとえば水に描けるがごとし。


そうすると、皆々、出家して僧にならなければならない。


自ら内省して、罪悪凡夫にして、救済の絶望から渕に沈んだ時こそ、仏の大慈悲心に目覚める時である。仏の本願力の手が差し伸べられる喜びに立ち直ると言う。


そして、第二の深心は、決定して、深く信ずる。阿弥陀仏は、48願の本願を持って、衆生を摂取すると言う。


疑いになく、その本願に乗り、必ず往生すること。


仏陀は、いや、釈迦仏はと言う、この経を説いて、人をして阿弥陀浄土を欽慕せしむ。

阿弥陀経に、十方無数の諸仏が一切凡夫も決定して、生ずることを得ると証明し、勧進す、と言う。


ここで、明確にする。

浄土三部経は、妄想の経典である。


人が勝手に、描いた、妄想の仏、阿弥陀仏などを創作して、描き出したものである。


一体、存在しない、阿弥陀仏を、どうして信じることが出来るのか・・・

決定とは、けつじょう、と読む。


確定しているという意味である。


つまり、信仰が確定している、定まっていると言うのである。

ここで、日本の浄土宗の人たち、その始祖たちは、自虐と陶酔感に溢れて、勘違いし、専修念仏という、迷いを、歴史的に、振り撒いたのである。


この蒙昧に、いつ、目覚めるのか・・・