神仏は妄想である577

前回に引き続き、唐の時代、中国浄土教を大成した、善導のお説を紹介する。


くどいようだが、仏心とは、大慈悲心であると言う。


ここで、慈悲を、大慈悲と呼んでいることに、注目である。

つまり、誇張している。

わざわざ、大と、誇張するのが、彼らの極めて、妄想的なところである。


救いに絶望せざるを得ない者ならば、仏の大慈悲心に包まれているのだと信じることなのである。


何故、救いに絶望するのかと言えば、今は、末法の時代、罪悪濁世の時代であるとの、お説である。


浄土教に説かれている、阿弥陀仏の本願を深く信じ、釈迦の説法を深く信じ、十方諸仏を深く信じる事。


一仏の教えは、一切仏の教えである。

そして、一切仏の教化は、一仏の教化である。


まあ、何度も繰り返して、語ることが、宗教の、いや、嫌な主義主張の、手である。


次は、回向発願心について、である。


自らが、過去と今生とになした、一切の善も、また随喜した他人がなした一切の善も、自他の善を、ことごとく真実心深心の中で、かの国に生まれんと発願するものである。


自他一切人の、共生を期する心を忘れてはならない。


かの国に生じ終わって、還た大慈悲心を起こし生死に還りて衆生を教化するを、また回向と名づく。

善導


かの国に到り終わって六神通を得て十方界ら還り来たって苦しみの衆生を救わん。

善導


聖者の域に進めば、またこの世界に還り来たって一切衆生を教化し救済し尽くすことに身命を捧げると、利他大慈悲活動への回向発願との二門を一つの回向発願としている。


そして、これが菩薩の、大乗仏教の本質であり、一切衆生とともどもに生きる、一乗仏教だと言う。


ちなみに、小乗仏教と呼ばれるものは、一乗ではない。

声聞、縁覚と言われた。説明省略。


次に、起行とは、実践行について、浄土信仰をいかに確立してゆくかである。

善導は、世親の「浄土論」を注した曇鸞の説を受けて、独自に一心に、もっぱら阿弥陀仏に捧げる、礼拝正行、讃嘆供養正行、観察正行、読誦正行、称名正行の、五種正行を立てた。


そして、その中の、称名こそ、現代一切衆生の生活を貫いて、共通に専修されるべき、浄土正行とした。


一心に、念仏を唱えるという行為である。

正定之業と言う。


この時代の現代とは、唐の時代のこことである。

それから、600年後に、法然が、この善導の教えに共感し、黒谷で浄土宗の教宣を拓くのである。


その他の、正行は、助業となすとある。

つまり、専修念仏の教えの完成である。


その念仏は、禅定の心中に観想思惟する念仏ではなく、阿弥陀仏の名を称する、専修称名一行に帰結し結実したという。


禅定の否定か・・・

凄いことだ。


禅の道元は、念仏を、畑の中で鳴く蛙のようなものと、判定した。


まあ、念仏も、禅も、共に、妄想の世界である。

そこを、行ったり来たりしている。


この教えの、散善義の文を読んで、法然は、一大決心をした。

善導著作の、観経疏である。


最後に、第三の浄土行者の作業は、恭敬修、無余修、無間修、長時修の、四修である。


これは、要するに、恭敬の心を失わず、余の雑行を交えず、称名行を相続して、生涯を称名行の、信仰実践で貫くということ。


ただ南無阿弥陀仏と申すほかには別の仔細候はず。ただし三心四修など申すことの候ふは、決して南無阿弥陀仏にて往生するぞと、思ふうちにこもり候ふなり。

法然


法然が、発明したのではなく、すでに、唐の時代に、善導が発明した、その教えなるものに、共感して、鎌倉時代に、宗教改革の手を上げたのである。


相次ぐ迫害に遭いつつも、法然は、その信念を曲げなかった。

偉いものである。


そして、その後の、浄土宗は、どうなったのかは、見て御覧の通りである。

更に、そこから出た、浄土真宗という宗派も、笑いものである。


全く、開祖とは、関係なく、世の中に居候して、安穏とし、衆生に救われような、生き方をしている。


法然も、親鸞も、仏壇仏像を否定した。

戒名など、何処にも無い。


偽物の教えは、結果、偽物の宗教を作る。

その最初が、大乗仏教という、大嘘の教えである。


残念ながら、日本には、偽物の仏陀の教えが伝わった。


本物の仏陀の教えは、無い。あっても、何のことはない。ただの、生活指導である。


だが、その生活指導こそ、聞くに値する。


良いこと、正しいことを思い、それを実行すること、である。


そうすると、良いとは何か、正しいとは何か、実行するとは何か、と諸々、後世の人たちが議論し始めて、とんでもない、お化けを創り上げた。


それが、現在の日本仏教の姿である。


もう少し言う。

仏陀は、出家者、僧が葬式をすることを禁じた。

死後の世界についても、語らない。

神通力も、認めなかった。


それらが存在することは、どうでもいいことだった。

生きるとは、どうするべきかに、答えたのである。


この世に、執着するものは、何一つ無いと言った。

だから親子の愛情も、否定した。

親子の愛情を否定するのであるから、勿論、男女の愛など、論外である。

愛するなどとは、幻想であることを、知っていた。


仏陀は、この世を全面否定した。

そう、この世は、虚無であると、看破した。