生きるに意味などない174

それからもう一つ、このような姿で眺められた存在世界では、いわゆる「事物」は、正確には、もう事物ではないということに注意しなければなりません。

筒井


以下は、私が簡略に書く。


つまり、観想体験を経た人の目から見ると、一つ一つが、存在の出来事、プロセスなのだ。


それらは、ただの、現象的幻幻影に過ぎないと言う。


物質だけではありません。全体的に見れば、この世界に存在すると考えられる事物は、すべて「無」すなわち絶対無分別者が、様々な形で自己分節していく「出来事」の多重多層的拡がりにすぎません。しかも、ひとつひとつの「出来事」は文字通り瞬間的な出来事です。無分節が自己分節した姿を一瞬見せる、そしてまたそのままもとの無分節に戻る。

筒井


何一つも、一定にあるのではない。

絶えず、流れているのである。


それは、易経の、易の思想でもある。

易経が、占いの書物とだけ考える人には、解らない。


存在世界は、かくて、一つの無限の動的プロセス、宇宙的流動なのであり、この世界のすべて物は、根底から、こういう意味での存在論的流動性によって特徴づけられるのです。

筒井


その通り、である。

何も、言い分はない。


「有」から出発して、「無」に至り、そして、また「有」に戻る。

それが、表層、深層をともに合わせて、意識のあらゆる層を、観想的に知った人の目に映る、リアリティの存在論的風景だと言う。


全く、その通りである。

だから、どうした・・・


すると、そういう、観想的体験のない人は、解らないとでも言うのか。


要は、「自己」なるものを、東洋哲学が、伝統的に、一体どう考えてきたか、ということをお話ししたかったのです。

筒井


有り難いことだ。


こうして、解説者がいると、人は安心する。そして、権威があれば、納得する。だから、学者も権威が無いと、金にならない。


ユングの、「自己」セルフと、「自我」エゴの考え方から発して、東洋思想を語っのである。


自己が尊いものだとの、考え方である。

エゴ、自我は、しょうもないもの、か・・・


凡そ、人は、自我、エゴで生きる。

そこで、本当は、自己、セルフで生きる事が、必要でと、説く。


そうすると、分かったような気分になるから、人間は幸せなものである。


こうして、意味付けされると、安心して生きられるようである。


ところが、人は、不安になる。

いつも、不安な人がいる。

それは、病的だと言われる。

が、不安は、実は、生きることと、同じなのであると、知る人は、少ない。


人類発生の頃から、不安が人類を生かした。

そのために、大脳をフルに使って生きた。生きて来た。


意味の無いものに、意味をつけて、見出して、何とか、生きて来た。

それは、現在も、そのようである。


新しい時代を意味付けする人たちが、数多くいる。

終いに、この年は、世界が宇宙的に変化する年などと、大上段に掲げて、金儲けを企む者もいる。


それは、宗教から始まり、何やら、古めかしい言葉を発して、何かありそうな予感を感じさせる。

すべて、詐欺である。

しかし、詐欺をしている者も、気付かない。


信じてしまっている。

信じる者は、騙されるのであるが・・・


誰もが、何かを信じている。

そうでなければ、生きられないからだ。

無意味に耐えられる人は、いない様子である。


いい例が、医療である。

ガン治療に、抗がん剤、放射線治療とくる。

ところが、治っても死ぬ。


昔、信仰でガンが治ったと宣伝していた、宗教があったが・・・

その後、その人は、死んだ。

ただ、それだけ。


そして、死ねば、即座に忘れ去られる。

それが、人間の本性である。


死ぬことに、意味付けできないから、生きることに、意味付けする人間の、哀れさである。


この世は、虚無であると、知った仏陀は、この世に生まれないことを、説いた。

輪廻転生を信じていたらしい、仏陀である。


上記の、筒井氏のお話しは、参考になるが・・・

「無」と言っても、実は、百人百様の「無」があるとは、言わない。


「無」とは、すべての人が、皆、同じ「無」だと信じて、語る。


だから、私は言う。

何一つとして、同じ「無」とか「空」など無い。


つまり、言葉の定義さえ、不透明なのであるが、同じだと考えて、皆々、熱心に説くのである。

本当に、ご苦労さんである。


次に、続く。