生きるに意味などない175

私はユングにならって「自己」と「自我」とを区別する考え方を導入しました。この区別をここで憶い返してみますなら、先ほどご説明いたしましたような形で「無」と「有」のあいだ、つまり無分節と有分節とのあいだ、を往還する多層多重的意識構造の全部を、観想的に一挙に自覚した主体性が、すなわち東洋思想の考える「自己」であるということがおわかりいただけたのではないかと思います。

筒井


「自己」セルフ、「自我」エゴである。

エゴという言葉には、マイナスイメージがある。


エゴイスト・・・などと言えば、自己中心の人のことを言う。

しかし、ここで、自己中心と、「自己」という言葉を使う。


時に、自我が、自己になり得るのである。


確かに、東洋思想は、「自己」に関する、思想であろうと、思う。それは、それはそれで、いい。

何の問題も無い。


自我は、自己の一部である。

それで、説明が付く。


エゴは、「自己」という多層多重構造のごく一部、つまりその表層領域であるにすぎません。

筒井


その通りだ。

しかし、私が、自我を失えば、どうなるか、である。

これは、生存に欠かせない重大なことである。


倫理進化学によれば、人の行為は、すべて、利己的行為となるとの説明である。


他者に対する、利他行為も、結局は、利己的行為であると、説く。


さて、そうすると、「自己」を深めるという、東洋思想の奥儀も、不安定である。

一度、自己というものを、想定して、考えるとする。


そして、自我は、自己の一部であると、する。


「自己」それ自体には、それぞれが根本的に異なる仕方で機能する幾つかの異なったレベルがある。そうであればこそ、存在の多層構造に応じることができるのです。「自己」の全体のみが、すなわち己の深さとを徹底的に自覚した意識のみが、他面的存在リアリティの無限の広さと、測り知れぬ深さとの全貌を正しく見通すことができる。存在の世界は果てしなく広く、底なしに深い。「自己」もまた果てしなく広く、底なしに深いのです。

筒井


と、いうことを、信じるのか、である。


とても、解りやすく解説していると、思う。


そして、あたかも、自我や、自己というものが、存在するかのように、考える。それは、生きる意味意識の説明と同じである。


そして、それを知れば、生きる意味が、深まるとでもいうような、言い方である。


それは、好き好きであるから、如何ともしがたい。

心得違いの人が、それを勘違いした場合は、どうなるのか。


自己の一部である、自我をすべてだと思う人は、救われないとなる。

勿論、自我のみで生きる人もいるだろう。


それは、動物である。

しかし、人間も、動物である。

だが、人間は動物と違うのは、その精神、つまり、脳の働きが進化したという。


大脳化が、人間を、動物から区別した。

そのようである。


そして、その意識が複雑化して、自我と、自己という、とんでもない、世界を持つことになった。


上記の筒井氏の、書き込みは、自己の世界が、限りなく、深く、広いというが・・・

だから、どうした・・・


ユングは、意識の下にある、集合意識、遂には、民族意識とか、すべてのものに通ずる意識とか、色々と、定義した。


それは、大乗仏教の唯識派も、同じ事を言う。

アラヤシキ、マナシキという、意識のそこにある意識である。


あるると仮定して、考える。

それは、皆、大脳化のゆえのこと。


つまり、脳学では、人間の脳は、まだまだ、すべてが使われていないということだ。

だから、その脳の能力を、叫ぶが・・・


使われていないということは、使わなくても、いいということである。

また、使わない方がいいのかもしれない。


使う事によって、妄想の果てまで行く。

何せ、人間は、妄想の内に、生きて来た。


現在、生きていると、感じている意識が、妄想であると言っても、いいのである。

この頃は、西洋の哲学者が、現実は、妄想、幻想であると、言い始めた。


私も、それに賛成である。

この世は、幻想、妄想なのである。


それでも、生きているという意識を持って、生きている。

それが、素晴らしいことだ。


無いものを、有ると信じて、生きるとは、実に粋である。

つまり、それは、迷っていても、迷った振りをして、生きているということだ。


諺に、地図があっても迷う、という言葉がある。

それは、つまり、迷うことが、楽しいのである。


無意識の世界には、それを楽しむ余裕があるということだ。

つまり、幻想、妄想の、この世を楽しむということだ。


少し考えると、解ることだが、死ぬと、この世は、幻想、妄想の世界になる。勿論、死ぬと、意識が無くなるという人は、特に、そうである。


そして、二度と、この世で生きていた、私というモノが無くなると考える人たちは、である。

何故、日本人の先祖たちは、この世は、仮の宿りと考えたのか・・・

それが、問題である。


もしかして、あの世というものが、存在すると、確信していたのか・・・

まあ、死ねば解ることだ。