国を愛して何が悪い248

亀井勝一郎の説く、密教型思考により、室町の五山禅林に、どのような影響を与えたのか。


それは、とんでもない頽廃である。


三教一致、つまり、道教、儒教、仏教が一致するという、考え方である。

また、儒仏不二、つまり、儒教と仏教の同一性である。


それが、思想上での、脆弱さだと、亀井が言う。


何でも、受け入れればよいと言うものではない。


禅僧のなかから儒者となるものがあらわれ、あわせて漢詩文への耽溺が五山を風靡した結果でもあろう。

亀井


三教一致、儒仏不二を、夢窓も義堂も、否定したが、否定しつつ、義堂は、足利家や武家のために、儒学を講じたのである。


武家は、禅よりも、儒学の方を要求したのである。


信仰にとって博学は敗北を意味する。そこから脱出する道はひとつしかない。きびしい「行」を自己に課して信仰の純化をはかることだ。空海もそうであったし、道元における戒律のきびしさもこの点での戦いと深く関係している。

亀井


そして、もし、戒律が弛緩したならば、僧は、文化人になり、知識階級というものに、成り下がると、亀井は、言う。


つまり、亀井は、僧は僧として、信仰の道にのみ、その存在意義があると、見ている。


五山禅林は、文化上の豊穣を示しつつ、転落した。あるいは、堕落したともいえる。


罪悪感について深く思索するるだけの条件にかこまれながら、「気乗りの無さ」を示しているとの、指摘である。


宗教というものは、罪悪感の有無から始まるようである。

私は、罪人という意識の、深さであると言う。


だが、私は言う。

その自虐性は、命取りである。


その、自虐性に囚われて、それを、信仰の深さと勘違いする。

それが、間違いの元である。


生きていることが、罪なのか・・・という疑問である。

生まれたことが、罪なのか・・・ということ。


そんな教義を信じて、何事かを成すことが、信仰なのかという、疑問である。しかし、それについては、別エッセイ、神仏は妄想である、に書いているし、また、書き続けるので、省略する。


室町時代に入り、五山僧に目立つのは、博学による、堕落と、衰退する、信仰の問題であるとの、亀井の指摘である。


その室町期の、様々な文化的行為があるが、それを一つひとつ取り上げない。


私の興味のあるものだけを、取り上げる。

例えば、漢詩などの世界は、取り上げない。というより、解らないので、判断のしようがない。


私の教養の無さである。


そこで、この時代を代表するような、人物を見る。

一休宗純である。


義堂は、1388年に歿する。それから20年後に、義満が没している。

一休は、すでに15世紀に入るが、88歳で歿するまで、この世紀の大半を生きた。


その間、土一揆が連続して起こっている。

将軍義教の暗殺に発した争い、嘉吉の乱から、応任の乱へと、内乱が続き、室町禅林も、世相も、廃頽の相を深くした時代である。


そういう時、無秩序の中に、踊り出たら、どいうことになるのか。


一休は、室町禅林の高尚的な学風、戒律の持つ偽善に反逆した。

それは、鎌倉の始祖たちが、南都北嶺に対して失望したのに似る。


一休も、五山を去り、民衆の間にあって、独自の布教を試みた。


しかし肝心な点は、こうした反逆の市政ではない。彼自身が破戒者の自覚に苦しみ通したということだ。信仰の危機は外面的なことではなく、何よりもまず自分の信仰の破綻である。一休がここで示した戦いは、極めて正常なことであって、後世に伝えられたような奇矯な点などすこしもない。

亀井


そして、亀井は、その生きざまを、あまり評価していない。


その視点は、鎌倉仏教の始祖たちの、視点で判定している。

それも、ありなんと思う。


道元に連なる道か、法然、親鸞へと連なる道かの、いずれかの道。だが、一休は、いずれの道も選ばず、酔狂の道を選ぶ。

その評価は、基本に厳しい亀井には、品くだれるもの、という以外にないと言う。


下品である、とのことだ。


一休の書いた、骸骨の一節を見る。


そもそもいづれの時か夢のうちにあらざる、いづれの人か骸骨にあらざるべし。それを五色の皮につつみて、もてあつかふほどこそ、男女の色もあれ。息絶え身の皮破れぬれば、その色もなし、上下のすがたもわかず。たた居間かしつきてもてあそぶ皮の下に、この骸骨をつつみて、うち立つと思ひて、この念をよくよくこうしんすべし。貴きも賤しきも、老いたるも若きも、更にかはりなし。


要するに、骸骨である人間の様である。

ただの、骸骨を持って、生きているのみと言う。


一休の書き物は、難解、抽象的な表現はない。

すべてが、平仮名で、易しく書かれている。


気取りが無い。

だが、徹底さがないのである。

それが、亀井の心を満たさないと、見る。


亀井の好きな、行、という有様が見えないのが、一休である。

だが、私は、別の面で、評価している。