国を愛して何が悪い251

遣唐使の廃止されたのは、寛平五年、893年、続いて中国は五代となる。

通行は、一時空白状態になるが、11世紀初期から、平清盛の時代にかけて、北宋との貿易は、熱心に開始された。


続いて、南宋、1127年ー1270年、元、1271年ー1367年、そして、明、1368年ー1615年に渡り、日中貿易は、政府間、あるいは民間を通じて、継続する。


日本では、中国の王朝が変わっても、かの国の物を、唐物と言って、重要視した。


室町期は、明の時代と対応する。

貿易は、幕府の重要な経済的基盤となり、また、堺を中心とする民間商人の台頭を促し、次の近世を迎える。


近世を拓いたのが、織田信長だと言われる。


七世紀から、九世紀に渡る、三百年間の唐への夢は、連続していたのである。


そこに、禅僧は、学識と語学の面から、この貿易外交に参加していた。


どういう道においても、異国に学ぶとは、すぐれた異国人とその作品に直接相まみえて、出来れば「面授」「面受」の経験をもつに越したことはあるまい。

亀井


人と作品に、直に触れるということが、いかに大事なことであったか、である。


ちなみに、北宋、南宋、元、明と、中国では、同じ民族ではない者が、王朝を建てたということを、忘れないことである。


それでも、芸術、宗教は、引き続き、継続して、続いていた。


更に、記録には残らない人たちが、技術者として、200年もの交流が続き、民族の精神形成に大きな影響を与えたのである。


北宋以来、日本からの輸出品としては、砂金、真珠、そして、硫黄島の硫黄、木材、日本刀などがある。


輸入品としては、生糸、綾錦の織物、陶磁器の茶碗、壺、じゃ香などの香料、薬剤などがある。


それらは、いずれも、当時の貴重品であった。


室町期の、峻厳な信仰と、バサラ風の遊びの世界と、その対比が面白いが、結局、バサラの贅沢が勝ったようである。


武家から、商人は、輸入品の魅力には抗しきれなかった。そして、僧たちも、例外ではない。


中世分化と言えば直ちに「幽玄」「わび」「さび」といった美的理念を思い出すが、それとは似ても似つかぬ状況が展開された。いやこの状況を背景とすることなしに、こうした美的理念も鍛えられなかったと言ってもいいであろう。

亀井


その最も端的な例は、室町初期の茶会の状景に見られる。

ここでは、省略するが・・・

実に、華々しいものである。


それは、バサラと言われる人たちの、茶会の様子である。

茶道などという言葉が出来る以前の、茶会の様子である。


後の、茶会とは、全く異質なものである。


同時盛んだったのは、数種の茶を喫して、その品種を言い当てるという、「闘茶」である。

連歌、双六と共に、行われ、莫大な賞品がかけられた。


「喫茶往来」には、その様子も伝えられ、続いて、茶会の終わった後は、遊興である。遊宴ともいえる。


歌、踊り、申楽、田楽、白拍子、傾城なども、招かれた。


近世の、利休前後の茶会とは、全く異質である。

「わび」「さび」とは無縁の、大遊宴会である。


未だ洗練を経ない、趣味の悪い、或る意味で「文化的な野蛮状態」とも言えるこの状態を、しかし軽蔑は出来ないのである。外来文化の摂取における貪婪な活力がひそんでいるからだ。

亀井


私も、同感である。


さらに重要なことがある。こうした雑然たる状態のなかからでなければ、「目利き」の世界は形成されなかったであろうということだ。・・・

下働きをしていた身分の低い人たちの存在を忘れてはならない。こうした催しのくりかえされるなかで、彼らの「眼」は次第に洗練されたにちがいないのだ。

亀井


それらが、後に、阿弥の付く人たちである。

能楽の、観阿弥、世阿弥たちだけではない。


多くの阿弥たちが、バサラの武家に取り入れられ、苦い経験をしつつ、芸道上の工夫を凝らしたのである。


こうした茶会が、長い年月、繰り返された。

尊氏の時代から、義満の北山第、義政の東山山荘の時代まで、百年使い年月が流れている。


時代のこうした潮流を念頭におくなら、能とか茶道とか連歌の洗練など、なまやさしいものではなかったことが了解されるであろろう。

亀井


これは、後に、明治維新の際にも、繰り返されることである。

西洋を取り入れるために、滑稽な程、西洋の真似をした時代である。


その、取り入れから、日本人流、和風に変容させる力を持った、日本人である。そして、それは、古代から、天皇、朝廷によって、外来文化が取り入れられた過程を見ると、和風に変容させる力があるという。


和風化は、日本人の得意技であった。


亀井の言葉で言えば、日本人好み、に変容させるというものである。


それが、江戸時代に花開くことになる。

それらを取り込んで、和風にして、更に、工夫した日本人の精神である。


例えば、峻厳な姿の、達磨絵図が、とても庶民的で、滑稽なほどに、明るい、達磨像が描かれたのは、江戸時代である。


それは、全国津々浦々にまで、郷土芸術、玩具となって広がった。