死ぬ義務51

いずれにしても、活動停止状態のケースをどう分類するのが最善かという疑問を別とすれば、いったん物理主義者になった場合には、死には格別深遠なところも謎めいたところもないように見える。

健全な人間の身体は、さまざまな形で機能できる。低次の適切なB機能が実行されている(あるいは、実行されうる、と言った方が良いかもしれない)限り、身体は生きている。もちろん、万事順調なら、身体はもっと高次の認知機能であるP機能も果たせる。そして、それはつまり人格を持つ生きた人間であるということだ。

シェリー・ケーガン


延々と説明して、最後の結論である。

学生相手であるから、饒舌に、多くの譬えを使い、説明している。


B機能である、身体機能を、低次としているところが、私には、面白い。

そして、P機能、人格機能が、高次なのである。


身体機能を亡くして、人格機能があるのかと、問うが・・・

人格機能とは、頭、脳のことである。


脳死となれば、臓器移植が可能である。

つまり、脳死は、死、と現代は判定される。


それは、脳が死ねば、全体が死んだと、判定されるということだ。


だから、問題は、脳に障害のある人のことなのだ。

その、特例に関しては、誰もあまり、言葉にしない。


さて、続ける。


ところが悲しいかな、いずれ身体は壊れ始める。P機能を実行する能力を失う。その時点で、人格を持つ生きた人間ではなくなる。最後に(それはその時点かもしれないし、さらに後かもしれない)、身体は壊れていき、B機能を行う能力も失う。そして、それが身体の死だ。

当然ながら、科学の観点から解明するべき詳細はたくさんあるかもしれない。だが、哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。死とは、ただそれだけのことなのだ。

シェリー・ケーガン


その通り、死、とは、それだけのことである。


それなのに・・・

何故、更に語るのか・・・


それが、人間なのである。

だから、次の、第三講の、テーマを見ると、当事者意識と孤独感ーーー死を巡る2つの主張とある。


その一つの主張は、「だれもがみな、自分が死ぬことを本気で信じてはいない、とある。


その根拠1 「死んでいる自分」を想像出来ないから、である。


この説は、「自分が思い描いたり想像したりできないような可能性は信じられない」という前提に立っているのは明らかだろう。だから、まず指摘しよう。この仮定には異議を申し立てうる。それどころか、何かを信じるには、それを頭の中で思い描けなくてはならないとする説は、おそらく信じるべきではないと思う。この説は、信念を抱くのには何が必要かについて、考え違いをしているのではないか。

シェリー・ケーガン


こうして、名講義と言われる、「死」とは何か、という講義が続く。

哲学のお話しである。


私は、時々、すっ飛ばして、読む。

実に、くどい。

そして、例え話である。


これで良く解る事は、欧米人は、理屈が好きである。

そして、語り過ぎる。

だが、語らなければ、彼らは、納得しない。

そして、それが誤解てあっても、いい。


兎に角、言葉の多さを好むのである。

言葉が多ければ、それが、理解の手だと信じている。


勿論、嘘でも、いい。

嘘でも納得すれば、納得する言葉の、数々があれば、いいのである。


キリスト教神学は、今も、語り続けている。

つまり、終わらない神学となっている。


漫才を聞いているつもりで、読むしかない。


「ああ、死んでいるということはどういうことなのかは、どうやらわからないらしい。想像できません。謎です」


根拠1に対するシェリー先生の考え


だが、この問題をそんなふうに考えるのは完全にお門違いだ。そこには謎など一つもない。

自分の携帯電話であるというのはどういうことなのかと自問したとしよう。答えはもちろん、どのようなものでもない、だ。ただし、この答えを誤解してもらっては困る。・・・


携帯電話であるというのは、このようであるということが、いわばその内部には、何もないのだ。

シェリー・ケーガン


中抜きは、面倒なので、省略である。


更に、ボールペンの譬え話である。

物書きとしては、呆れる程の説明である。


ここまで言わなければ、何事かを説明出来ないとは、驚きである。


ボールペンになったら、何も考えられないし、何の興味も持てないからだ。

シェリー・ケーガン


次の講義の題は、「自分が死んでいるところ」は本当に想像できないか、である。


忙しい時間を費やして、読むほどのものではないと、判定するが・・・

私は、死ぬ義務、を書くので、死に関するものを、取り上げている。


時々、面白いこともあるので、もう少し、この哲学の先生のものを、引用する。


さすがに、日本の哲学の世界は、紹介哲学であるから、このような、本格的な、アホのような哲学講義は、ないようである。


例えば、東洋哲学、あるいは、仏教系の哲学の、生死一如、などという言葉は、見出せない。