死ぬ義務52

結局、自分自身の死は想像しようがなく、想像しようとするたびに、自分が傍観者として本当は生き延びていることが見て取れる。従って、精神分析の学派では、あえて断言できるだろう。心の奥底では誰一人死ぬとは信じていない、と。同じことなのだが、無意識の中で、私たちの誰もが自分は不滅だと確信している。

フロイト


と、一時期までは、このフロイト説が、もてはやされた。

そこで、シェリー・ケーガン氏の反論である。


その前に、私から言う。

自分の死というものを、考えないで、生きて来た人々がいる。

現在の人たちである。


死ぬとは、思わないのである。

いずれは、死ぬが、それが本当に来るとは、信じていない。


死ぬはずがないと、思っている。

例えば、明日、バイクに乗って、死ぬとは、考えられない人たちである。


だが、突然の死が、ある。


その時、対処出来ない。

霊学から言えば、その体から出た、幽体が、浮遊することになる。

つまり、幽霊である。


死の自覚がない、幽霊である。


実際、それに対処している私は、解る。

浮遊するしか、方法が無い。

また、死後の世界など、無いと信じている人たちも、死の自覚がない。


まことに、迷惑な存在となる。


それでは、シェリー氏の、論説である。


それがお粗末な主張であるのを見て取るために、死の問題ほど異論のなさそうな例を考えてみよう。みなさんがあるクラブのメンバーで、今日の午後、ミーティングがあるのだが出席できないとする。みなさんが欠席しても、そのミーティングは行われると信じているかどうか、自問してほしい。一見、そう信じているのは明らかなようだが、ここで想像してもらいたい。


誰かがフロイト流の主張を行い、じつのところ、みなさんは本当にそう信じていないことを示そうとする。その人は、こう言う。

「そのミーティングを想像してください。あなたが欠席することになるミーティングです。部屋を思い浮かべてもらえば良いかもしれません。たとえばテーブルの周りに人々が座って、クラブの活動について話し合っているところを。

ですが、ちょっと待ってください。あなたはこの光景をみんなの目で見ています。自分を傍観者として、こっそりその場に潜り込ませたのです。

けれどそれでは、あなたがその部屋にいないまま行われているミーティングを本当に思い描けたことにはなりません。そしてこれは結局、そのミーティングが自分抜きで行われると本当に信じていないことを意味するのです」


この主張はどこか間違っているに違いない。みなさんもきっとそう思うだろう。私たちが出席しなくても、日頃からさまざまなミーティングが行われていると、誰もが信じているのは明らかだ。同様に、自分が不在の世界を思い浮かべるときに、たとえ「何らかの意味で」自分自身をこっそりその場に連れ戻したとしても、その世界が存在する可能性を私は信じることができる。

シェリー・ケーガン


上記の間違いを、二つに分けて、述べている。


まず、一点目。ある写真を見ているときに、自分が現にその写真を見ているという否定しがたい事実と、自分自身がその写真の中に写っている要素の一つがどうかという、まったく別のさらなる疑問とを区別する必要があるということだ。そして二点目は、写真は常に「あるいは少なくとも普通は」特定の視点、特定の位置からある場面を写しているという事実だ。

シェリー


そして、フロイトの主張に対して、

自分の存在しないところを思い描こうとするとき、「私は今この瞬間に存在して、その光景を観察・想像していなければならない」という否定しようのない事実を、「私自身がその光景の中に見えているものの一つである、それは私の写った写真である」という完全に異なる結論へと進ませるのだ。

シェリー


だが、その結論どおりである必要はまったくない。私は自分がその場に居合わせなくても、私抜きでミーティングが行われている様子を楽々と思い描ける。そしてもちろん、私の死後の、私抜きの世界を思い描くことについても、同じ事が言える。

シェリー


何とも、くどい説明である。

まだまだ、続く。


何故、こうして長い、引用をするのか・・・

人間は、一人で、このように、くどい、くどい、思考を繰り返して、そして、また、元に戻るということを、私は言う。


例えば、大乗仏教の、唯識論なども、これと似たような説明を、もっと、複雑怪奇な言葉で語る。


結局は、「意識ある、思考する人間としていつか存在しなくなると信じている人は誰もいない」という解釈を支持する説のうち、世間で最も広く信じられているものは成り立たないことがわかった。

と、なる。


だが、もう一つの解釈ーーー自分の身体がいつか死ぬと信じている人は誰もいないという解釈ーーーはどうだろうか。この第二の解釈をすれば、もともとの主張を信じるのに、もっともふさわしい理由が見つかるだろうか?

シェリー


哲学というもので、語るという、死の講義である。


私なら、別の語り方をする。

勿論、否定はしない。


このエッセイは、死ぬ義務、である。


人間には、死ぬ義務があるという、前提で書いている。

だが、本当は、義務ではなく、定めである。


だから、意識して、死ぬという行為を、自らが、行う事と、言う。

自殺のことではない。


死に方については、日本には、伝統がある。

意識して、死ぬという、伝統である。


だが、まだシェリー氏の講義を続ける。

何せ、名講義と言われるもの。

哲学の世界では、どのように語られるのか、と興味を持って・・・