死ぬ義務53

ここからは、倫理的な疑問や価値判断にかかわる疑問に目を向け、死は終わりであるという(やや単純化された)結論に照らして、それらを詳しく調べてみたい。

たとえば、死は悪いと誰もが信じている。だが、なぜ死は悪いのか?どうして死が悪いということがありうるのか?

そして、もし死が悪いとすれば、じつは私たちは永遠に生きるほうが良いのか?ほどなくわかるように、ここでも答えに困るような問題はたっぷりあるので、それを検討しなくてはならない。

シェリー・ケーガン


理屈屋と言う人がいるが、例えていえば、ケーガンさんのような人だろう。


死はなぜ悪いのか・・・

人が死ぬと、不幸があって、と言う。挨拶では、そのように言う人が多数である。


結論から言えば、死は、何も悪くない。

ただ、それを受け入れるだけの話なのであるが、哲学の講義では、それを詮索するという、ことである。


ケーガン氏は、死は悪いと、誰もが思っているという、前提から話している。

その手には、乗らないが・・・


死は私の終わりだ。だが、それが正しければ、死ぬことがどうして私にとって悪いということがありうるのか?なにしろ、いったん死んでしまえば、私はもう存在しない。もし私が存在しないのなら、私にとって、死んでいるのがどうして悪いことでありうるのか?

シェリー・ケーガン


これで、結論かと思いきや、これから話が続く。


そこに、こんな挿話を入れる。

人は死後も存在し続けるというのであれば、色々と、悪いことがあるかもしれない、と。


死後の世界でのことである。


そして、次は、死はなにより、「残された人にとって、悪い」もの?

との、見出しである。


それは、省略する。

あまりにも、呆れる饒舌だからだ。


死が本人にとってどうして悪いかを考えるにあたっては、自分が何を問うているのかをはっきりさせることが重要だ。具体的には、私たちは死ぬプロセスに悪いことがあるうるかどうか、あるいは、悪いことがどうしてありうるかを問うているのではない。死ぬプロセスが痛みを伴いうることにはまったく異論がないと思うし、少しも不可解な点はないだろうから。

シェリー・ケーガン


果たして、そうなのか・・・

死ぬ際の、痛みなく、眠るようにして、死ぬ人も多い。

あるいは、眠ったままに、死ぬ人もいる。


どうして、そのようなことを、断定出来るのか・・・

それが、この人の手なのである。


相手に考えさせることを、しないで、自分の饒舌さで、延々と続ける講義である。


勿論、その合間に、私のようなことも言うが、それで事は、終わらない。


というわけで、死が悪いのは主に何のせいかを考えているのなら、本人が死んでいることに的を絞るべきであるように思える。死んでいることのどこが本人にとって悪いのか?

シェリー・ケーガン


結果的に、以下、

死のどこが悪いのかという問いに対する答えが、もう、それで得られるのではないか?私は死んだら存在しなくなる。それは、死が悪いことである理由のすっきりした説明になっているではないか?

シェリー・ケーガン


最初のお話しから、また、繰り返して、言う。

その間の話は、何だったのか・・・


だが、次の質問めいた言葉である。


間もなくわかるように、じつは、存在しないことがいったいどうして悪いことになりうるかを詳しく説明するのは、かなり骨が折れる。そして、たとえ説明できたとしても、厄介な疑問がいくつか依然として残るだろう。

シェリー・ケーガン


そして、それならばとくに、本人が存在していないときに、存在しないことがその人にとっていったいどうして悪いことでありうるというのか?

シェリー・ケーガン


だが、更に、存在しないことが、どうして本人に悪いということがありうるのか、という謎が残ってしまう。


その謎を解くために、ここまで、話を引っ張るのか・・・


要するに、私が略して、言うが、存在しないものは、何も体験出来ない。そして、存在しなければ、生きる喜怒哀楽を感じられない。

感じられるものを、得ることが出来ない。


死んでいることが悪いのは、人生が提供してくれるだろうさまざまな良いことをもう経験したり楽しんだりできないからだ。

というわけで、非存在は、死が悪いことである主な理由を理解するカギを現に提供してくれる。

シェリー・ケーガン


死ぬ、存在しない、存在しないのが、悪いと、なる。

生きれていれば、得られるものが得られないからだ。


それを、剥奪説というらしい。


それでは、いつの時点で、死が悪いものになるのか・・・である。

と、延々と饒舌が続く。


これが、現代の哲学なのかどうかは、解らないが、ただ、名講義ということで、取り上げ見たのである。


言葉の遊び、そのテクニックを学ぶには、良いかもしれないが・・・

私には、合わない。


言葉の多くを使わない、日本人には、この講義は、苦痛であると言える。

勿論、講義とは、お話しである。

否定はしない。