死ぬ義務55

さて、死後の世界が、存在するか、しないか、という、馬鹿げた議論はしないことだ。


そんなことは、死ねば、解ること。


それより、どう生きるかを、考える。

そして、死ぬ時期を決めることが、重要である。


死ぬ時期は、誰も、予想が出来ない。

今、死ぬ、明日、死ぬ、十日後に死ぬ・・・


それで、賢い人は、死ぬ時期を想定して、生きる。

あるいは、死ぬ時期を決める。

中世の日本人は、死ぬ時期を決めて、それに向かって、生きて、準備をした。


私には、実に、理想的な、死に方だ。


死後世界が、あろうが、なかろうが、実は、生きることには、あまり関係がない。


それは、覚悟の問題である。

人間は、死ぬべき存在であるから、当然、確実に、死ぬ。

だから、そのために、悔いなく、生きることだ。


悔いあるとは、その死の床で、後悔することである。

それは、とても、辛いことだと、思う。

後悔したり、この世に未練があれば、死後の世界でも、それが、想念となり、まともに、永遠には、眠られない。


また、果たして、永遠に眠るなどということが、あるのか、解らない。


この、永遠に眠るとは、ただ、宇宙に取り込まれて、宇宙に同化してしまうということだ。


そして、意識は、ない。


ただし、霊学から言えば、意識は、あると考えるから、厄介である。


それでも、意識などないと、思い込めば、いい。

そんなことは、後のことで、どうでもいい。


死ぬば、死後の世界なのである。

誰もそれを知らないし、存在しても、その姿は、矢張り、百人百様である。


同じ、死後世界などは、ない。


馬鹿な人は、馬鹿な、賢い人は、賢い、死後の世界であろう。


また、神仏を信じるひとは、神仏を信じる、死後の世界である。

それも、百人百様である。


量子力学、量子物理学の世界では、次元の別があると、証明している。

つまり、次元違いが、霊界という事も出来る。


この世は、姿があるが、姿の無い、世界、次元もあるということだ。


言えば、エネルギーの世界である。

死後は、エネルギーの世界に生まれると、考える人もいるだろう。


まあ、それでも、どうでもいいことだ。

死ねば、終わりと考えるひともいる。それも、いい。


何一つも、否定しない。

死ねば、解る事だから。


それでは、私が言いたいことは、何か・・・

ただ、死ぬ時期を明確にして、死の準備をするということ。

そして、死ぬ覚悟である。


65歳で死ぬと決めて、そのために、準備をする。

勿論、100歳でもいい。

兎に角、死ぬ義務を遂行するために、準備をすることだ。


それは、毎日が死ぬ準備ということでもある。

武士は、毎朝、今日が死ぬ日と、心得て、家を出た。

見事なものだ。


それが、元服する、15歳前後から、心得として、身に付けていた。


更には、切腹の作法である。


戊辰戦争で死んだ、白虎隊の少年たちは、切腹の作法を教えられて、死ぬ覚悟も教えられて、自ら、自死を選んだ。

見事なものである。


管になって、生きるより、死ぬ時期を明確にして、死ぬ覚悟を持つこと。

いずれ、自殺についての、考察もする。

自殺も、一つの死の姿である。


言えば、安楽死、尊厳死である。


人の死について、とやかく、言う必要はない。

安楽死も、尊厳死も、自殺の部類に入る。

自殺は、罪などという、蒙昧な言葉はやめて、自殺についても、十分に考える必要がある。


10年後に死ぬとしても、毎日の準備が必要だということは、誰もが納得することだろう。


つまり、私に言わせれば、毎日が死ぬ日、である。

そのように、生きれば、悔いはない。


だが、これが単なる、言葉ではないことと、これを書き続ける必要がある。


生涯で一度だけの、死ぬ日である。

誕生の一度。死ぬ日も、一度あるのみ。


そして、死ぬと、二度と、戻らない。


なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、かの土へ参るべきなり・・・

歎異抄


本当に、この世が、名残惜しい、のか・・・

この世に、生まれたということを、悔いてはいないのか・・・


悪い冗談のような人生である。

いても、いなくても、いいような、人生である。

誰、一人も、ここに居て欲しいなどという人は、いないのである。


私も含めて、誰一人も、この世に必要ではない。