さて、死後の世界が、存在するか、しないか、という、馬鹿げた議論はしないことだ。
そんなことは、死ねば、解ること。
それより、どう生きるかを、考える。
そして、死ぬ時期を決めることが、重要である。
死ぬ時期は、誰も、予想が出来ない。
今、死ぬ、明日、死ぬ、十日後に死ぬ・・・
それで、賢い人は、死ぬ時期を想定して、生きる。
あるいは、死ぬ時期を決める。
中世の日本人は、死ぬ時期を決めて、それに向かって、生きて、準備をした。
私には、実に、理想的な、死に方だ。
死後世界が、あろうが、なかろうが、実は、生きることには、あまり関係がない。
それは、覚悟の問題である。
人間は、死ぬべき存在であるから、当然、確実に、死ぬ。
だから、そのために、悔いなく、生きることだ。
悔いあるとは、その死の床で、後悔することである。
それは、とても、辛いことだと、思う。
後悔したり、この世に未練があれば、死後の世界でも、それが、想念となり、まともに、永遠には、眠られない。
また、果たして、永遠に眠るなどということが、あるのか、解らない。
この、永遠に眠るとは、ただ、宇宙に取り込まれて、宇宙に同化してしまうということだ。
そして、意識は、ない。
ただし、霊学から言えば、意識は、あると考えるから、厄介である。
それでも、意識などないと、思い込めば、いい。
そんなことは、後のことで、どうでもいい。
死ぬば、死後の世界なのである。
誰もそれを知らないし、存在しても、その姿は、矢張り、百人百様である。
同じ、死後世界などは、ない。
馬鹿な人は、馬鹿な、賢い人は、賢い、死後の世界であろう。
また、神仏を信じるひとは、神仏を信じる、死後の世界である。
それも、百人百様である。
量子力学、量子物理学の世界では、次元の別があると、証明している。
つまり、次元違いが、霊界という事も出来る。
この世は、姿があるが、姿の無い、世界、次元もあるということだ。
言えば、エネルギーの世界である。
死後は、エネルギーの世界に生まれると、考える人もいるだろう。
まあ、それでも、どうでもいいことだ。
死ねば、終わりと考えるひともいる。それも、いい。
何一つも、否定しない。
死ねば、解る事だから。
それでは、私が言いたいことは、何か・・・
ただ、死ぬ時期を明確にして、死の準備をするということ。
そして、死ぬ覚悟である。
65歳で死ぬと決めて、そのために、準備をする。
勿論、100歳でもいい。
兎に角、死ぬ義務を遂行するために、準備をすることだ。
それは、毎日が死ぬ準備ということでもある。
武士は、毎朝、今日が死ぬ日と、心得て、家を出た。
見事なものだ。
それが、元服する、15歳前後から、心得として、身に付けていた。
更には、切腹の作法である。
戊辰戦争で死んだ、白虎隊の少年たちは、切腹の作法を教えられて、死ぬ覚悟も教えられて、自ら、自死を選んだ。
見事なものである。
管になって、生きるより、死ぬ時期を明確にして、死ぬ覚悟を持つこと。
いずれ、自殺についての、考察もする。
自殺も、一つの死の姿である。
言えば、安楽死、尊厳死である。
人の死について、とやかく、言う必要はない。
安楽死も、尊厳死も、自殺の部類に入る。
自殺は、罪などという、蒙昧な言葉はやめて、自殺についても、十分に考える必要がある。
10年後に死ぬとしても、毎日の準備が必要だということは、誰もが納得することだろう。
つまり、私に言わせれば、毎日が死ぬ日、である。
そのように、生きれば、悔いはない。
だが、これが単なる、言葉ではないことと、これを書き続ける必要がある。
生涯で一度だけの、死ぬ日である。
誕生の一度。死ぬ日も、一度あるのみ。
そして、死ぬと、二度と、戻らない。
なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、かの土へ参るべきなり・・・
歎異抄
本当に、この世が、名残惜しい、のか・・・
この世に、生まれたということを、悔いてはいないのか・・・
悪い冗談のような人生である。
いても、いなくても、いいような、人生である。
誰、一人も、ここに居て欲しいなどという人は、いないのである。
私も含めて、誰一人も、この世に必要ではない。